エネルギーがどこにも繋がっていない

最近、何もしてない。

かといって、別に落ち込んだりしている訳でもないから、なんだか不思議な感覚だ。

心にエネルギーはあるんだけど、どこにも繋がっていないとでも言えばいいのだろうか。

意外とやりたいと思っていることはある。読みたい本も溜まっているし、プチ旅行にも行きたいし、なんなら少し働いてもいいと思っているぐらいだ。

けれども、バッテリーとエンジンが繋がってないというか、心と行動がうまく噛み合ってないようなもどかしさがある。

これなんなんだろうなー。

 

「あんまり欲がない(中途半端に欲がある)」っていうのも考えものだな、と思う。

欲がたくさんあれば、エネルギッシュに生きることができるかもしれないけど、そうでもない。

無欲に徹することができれば、僧侶のように生きることができるかもしれないけど、そうでもない。

どっちになることも、目指すこともできないから、その辺りのバランス感覚というか、操縦がむずかしい。

 

数年ぶりに心療内科行ってみるのもありかなと考えたんだけど、自分の場合は「どこからどこまでが性格で思想で病気なのか」が分からない。

なんだかいつも暗いことを言っているから真っ暗なやつだと思われているかもしれないけど、意外と「生きていくかー」みたいな前向きの気持ちはある。

ただ、それとは別に世の中には苦しみが満ち溢れているし、とてもじゃないが無条件に肯定できるものではないと思っている。

基本的に「死にたい」「生きるのはつらい」「世界は残酷だ」なんてことは当たり前であって、その上で「どうしていこうか?」と考えていく方が真っ当なんじゃないだろうか。

 

岡本太郎氏の言葉で印象に残っているものがある。

「たとえ、自分がうまくいって幸福だとおもっていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には、辛いことばかりじゃないか。

人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはあり得ない」

非常によく分かる。自分が幸福だからといって世界を無条件に肯定する人がいるならば、それは自分が鈍感で周りの見えていないばかだと言っているようなものだ。

ただ、このような繊細病も扱いがむずかしい。

「周りを幸福にする為の方法」としてよく比喩されるのは、自身や周囲をコップに例えて、「まずは自分を満たそう(幸せにしよう)。そして、その溢れた幸せを他者にも分け与えよう」というものだ。

この方法にはとても同意である。自分が満たされていないのに、自尊心の為に他人を幸せにしようとすると歪んでおかしなことになるからだ。

しかし、周りに幸せを分け与えようとするような人は、自分が幸せになる前に周囲の幸せを気にしてしまう。

この辺りのジレンマというか、バランス感覚には悩まされることだろう。

 

生きることとは、バランス……。

バランスを取り続けることなのかもしれない……。

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