■ ニートの苦悩三段階仮説
先日、こんなツイートをした。これについてもう少し解説をしていきたい。
5年ぐらいニートフリーター生活してるけど、社会からドロップアウトする過程による苦しみは、「労働の苦悩」→「世間体の苦悩」→「実存的な苦悩」の3段階があるように思う。ちなみに、実存的な苦悩は働くと、忘れることができる(振り出しに戻る)。
まず、「労働の苦悩」とは、そのまま労働の苦しみのことである。
目覚ましに叩き起こされる出勤、すし詰めの満員電車、意義を感じられないどうでもいい業務、ストレスフルな人間関係、無限に続く週5の労働生活。
これらの総称だ。
このような生活に耐えられる人々ももちろん大勢いるが、ニートやフリーターと呼ばれる人々はこれに耐えられない。
(もしくは、耐えられない人々が、ニートやフリーターと呼ばれるのだろう)
そうして、社会のレールからドロップアウトすると、「労働の苦悩」からは逃れることができるが、次に待ち受けているのは「世間体の苦悩」である。
この21世紀の日本においては、多様な生き方を認めようとする動きがあるが、「怠惰に生きること」が良しとされることは殆どない。
特に、具体的な世間。家族、親族、友人からの目は冷たいものだろう。
「正社員じゃなきゃねぇ」
「何か夢があるならフリーターも分かるけど」
「恋愛や結婚は? 子供は?」
「普通だったら、あんたぐらいの歳の人間は……」
もちろん、直接そう言われることは少ないだろう。
だが、そのように思われていることぐらい、どこかで分かってしまう。
自分は”普通”じゃない。落ちこぼれ、社会のレールから外れてしまった人間だと、1人で苦しむことになるのだ。
この「世間体の苦悩」に囚われた人が取れる選択は2つしかない。
それは「普通」に戻ろうとすることか、「開き直る」ことである。
前者はよく見られることであるから、解説は省略するとして、後者はどういうことか。
それは「怠け者として世間に認められること」である。
「ニートは最高」
「フリーターが実は1番幸せ」
「リタイア生活始めました」
「資本主義の奴隷から脱出しよう」
こういう意見も嘘を言っているわけではない。
実際の生活から得た知見もあるだろうし、かくいう僕もこのような主張をすることが度々ある。
ただ、そういった自己肯定を繰り返してきた人間だからこそ言えるのだが、それらのどこかには、虚勢や欺瞞があることを認めなければならない。
100%の気持ちで「ニートが最高」と言っている人はいないだろうし、もしいたとしたらその言葉は薄っぺらいものだと批判せざるを得ない。
社会的な地位を失った人間がインターネットで自己肯定を繰り返すこと。これは実にむなしい。
ただ、それを繰り返してみるのも、悪くないことだったのかもしれない。
僕は今年の春先ぐらいに、「世間体に対する反発」という毒気が消えてしまった。
多分、本という形で、大量に考えたことを吐き出し切ったのがよかったのだと思う。
こうして「苦悩」は去ったかのように思われた。
しかし、最後には絶対的に強固な「実存的な苦悩」が現れたのである。
実存的な苦悩とは何か?
それは、「いま、私がここにいること」による苦しみである。
そんなことの何が苦しいのか、何を言っているのかよく分からない人も多いだろう。
具体的に言うならば、「実存的な苦悩」とは、「この世界があること」「この私がいること(そして、あらゆる感覚が止まずに生起されること)」「いずれ絶対に死んで永遠の無になること」である。
これらの異常性、不条理さが生々しく襲いかかってくるのだ。
(なぜ、私はいるのだろう。”いなくてもよかった”はずである! なぜ、世界はあるのだろう。”なくてもよかった”はずである!)
この話を聞いて、このように思う人もいるだろう。
「あー、死んだらどうなるとか、厨二病みたいなやつね」
そういった意見も分からなくない。
実際、僕も子供の頃に「なんで生きてるんだろう」「死んだらどうなるんだろう」といったことを考えたことはある。
でも、それはどこかで別の世界の話だと思っていたのだ。
まるで、ある種の思考実験であるような。
ニートにおける実存的な苦悩は、それらとはっきり質が違う。
社会な役割や肩書きを失った存在であるニートは、”ひと”として存在を剥き出しにされるのだ。
「私は不条理に生まれて、不条理に死んでいく」。
そういった事実が24時間、「紛れもない自身の問題」として叩きつけられる。
これが非常にきつい。
ただ、笑ってしまうような結論だが、このような”高尚な悩み”は、働くことによって、忘れることができる(解決ではない)。
せっせと汗水を垂らしている間は、宇宙に疑問を抱く間もない。
〈世界〉に押しつぶされそうになったとき、またはお金が無くなってしまったときは、バイトでもすればいいのである。
■ 物語の内外・割合と濃度・奇跡
ツイートについての解説は以上だが、補足を3つほど付け加えてみたい。
まず、1つ目は、苦悩を大別するなら、「物語の内側」と「物語の外側」の苦悩がある、ということだ。
「物語の内側」の苦悩とは、労働や世間体の苦しみである。
仕事での役割、人間関係、社会的な立ち位置、など。
そこには「物語」がある。
その中で苦しんだり、喜んだりしているということだ。
一方、実存的な苦悩は、物語の外側の苦しみ。
「ただ、あることの苦しみ」である。
意味が無いから苦しい。
そして、それは意味を見出すこと、物語の中に戻ることによって、忘れることができるのだ。
ただし、ここで主張しておきたいのは、別に僕はこれらの生き方や悩みに優劣を付けようとしているわけではない、ということである。
物語の中でより良く生きようとする人もいれば、物語の外で何かを見い出そうとする人もいるだろう。
これらに対して、どちらが良い生き方だとか個人的に断言することはできない。
(ちなみに、「『物語の外側の悩み』とやらも、『そういう哲学的な物語』で悩んでるだけなんじゃないですか〜?」という指摘(もしくは自問自答)もあるだろう。この辺りは微妙な問題になってくる。個人的には「外側の苦悩」は間違いなくあると思う。しかし、そのような思索を発表することによって、自身に物語を与えている可能性は否めない)
2つ目は、苦悩には割合と濃度がある、ということだ。
例えば、普通のサラリーマンだったら、「労働の苦悩 60%、世間体の苦悩 35%、実存的な苦悩 5%」といったところである。
これがニートやフリーターになると、労働の苦悩が減っていき、世間体の問題も解決していくと、実存的な苦悩の割合が否が応でも増えていくというわけだ。
また、悩みには濃さがあることも述べておきたい。
どんなに忙しい学生生活やサラリーマン生活を送っていても、”濃い”実存的な苦悩を持っている人は存在するように思う。
まあ、こういった人々はニートうんぬん以前に、哲学科に進んだり、出家したりすることが多いのではないだろうか。
そして、3つ目に補足しておきたいのは、実存的な苦悩はニヒリズム(虚無主義)やペシミズム(厭世主義)ではない、ということだ。
僕が言いたいのは、「人生には意味がない。だから、苦しい」というようなことではない。
例えば、「苦しい」や「不快だ」といった感情さえ、何かに対する恣意的なラベリング(意味付け)なのである。
あらゆるものは、ただ意味もなく存在している。
それが僕が理解できる範疇を超えていて、恐ろしい。そういった感情なのだ。
この違いが分かってもらえるだろうか。
そして、「恐ろしい」というのも、言ってみれば個人によるラベリングである。
ここで、ものすごく陳腐で安っぽい言葉を使ってみれば、「この世界があること」「この私がいること」は「奇跡」であると表現してみてもいい。
この僕が現実に存在していることは、素晴らしいことでもあるのだ。
このように、実存的な実感は上手く身につければ、常に奇跡を感じながら生きていくこともできるのではないかと思う。
ただ、そういった理解を超えたものに対する畏怖は、常に表裏一体である。
絶対的な奇跡がいつ絶対的な恐怖に変わるか分からない。
この世界が存在しているという莫大な事実を、ちっぽけな自身の上でバランスを取る。
これが本当にむずかしい。
実にむずかしいと、常日頃に考えるばかりである。