■ ひたすら”無”をしていた
2週間ぐらいツイッターやブログを更新していなかった気がする。
別に、なにかあったわけではないのだけど、”無”モードに突入してしまっていたのだ。
元気があるわけでもなければ、落ち込んでいるわけでもない。
最低限のパンやうどんを食べて、たまに散歩をする。
植物のようなメンタルで毎日を過ごしていた。
無。む。ム。
■ 世界がふらついてくる
“無”をやっていると、世界がふらついてくる。
認知レベルでよく分からなくなってくる。
モノに対する判断基準が消えていくとでも言えばいいんだろうか。
なんか電波っぽいことを言っているような気がするけど、僕自身もこれはかなり恐ろしい。
ちょっと下品だが、ぶっちゃけオナニーしたりすると、普通の世界に戻ってくることができる。
あんまりこういうこと書くキャラじゃないけど、これを書かないのも嘘であるような気がした。
■ 煩悩を滅尽すれば涅槃に至る?
仏教には、こんな教えがある。
「煩悩を完全に無くせば、涅槃(ニルヴァーナ)という完全に安らかな境地に辿り着ける」、と。
まあ、有名なので「知ってる~」という方も多いだろう。
僕はこれがよく分からなかった。
いや、もちろん言葉の上では理解しているのだが、どこかで「なんで完全に欲を無くすと、『完全に安らかな境地』とやらに行けるねん」という宗教的飛躍に対する疑問があった。
もしくは、「それって『競争から降りて無欲に生きるのが幸せだよ♪』という”ライフハック”止まりなんじゃないか」という疑いがあったのである。
■ 煩悩があるから娑婆に留まることができる
だが、”無”の生活をしていて分かったことがある。
逆だ。逆から考えれば分かりやすいのだ。
僕らは、「煩悩(欲望)という判断基準によって、この世界(此岸・娑婆)に留まることができるのだ」と。
使える/使えない。食える/食えない。危ない/危なくない。エロい/エロくない。
そういう判断基準があるからこそ、人は”この世界”に留まることができる(できてしまう)。
ここから逆説的に、「煩悩を完全に無くせば、涅槃(ニルヴァーナ)という完全に安らかな境地に辿り着ける」の意味を強く理解したような気がする。
■ 虚無と涅槃のアビス
とはいえ、無職になって社会活動から離れた日々を送っていれば、涅槃(ニルヴァーナ)に行けるというわけではない。
むしろ、そういったチャレンジはすごく危険だと思う。
確かに、”無”の生活を送っていると、別の世界に引っ張られていく。
だが、適切な手順を踏まないと、それはただの虚無に飲み込まれていくだけであるような気がするのだ。
例えるなら、装備も知識もなしに1人でアビスに突っ込むような。(『メイドインアビス』の話をしている)
知識や仲間がいないと明らかにヤバい。
だから、仏教徒は「仏・法・僧」に帰依して、深淵(アビス)に立ち向かっていくのだろう。
■ 怠け者のニートに涅槃はムリ
「ニート」と「仏教」の親和性は散々語られてきたけれど、怠け者のニートが涅槃に至れるかどうかと問われたら、僕は「無理」だと思う。
これも逆から考えると分かりやすいのだが、「お坊さんはなぜ日々修行をしているのか?」という話だ。
疑ってばかりで申し訳ないが、僕は「なんで瞑想や坐禅をすると、悟りに至れる(もしくは近づける)ねん」と思っていた。これも宗教的飛躍であるように思える。
だが、”無”の生活をして感じたのは、強い精神力がないと、”無”には立ち向かえないということ。
そして、そのためには、日々修行をして心を鍛える必要がある、ということだ。
(「強くする」や「鍛える」というと、ちょっと語弊があるかもしれないが、とにかく伝統に裏付けされた正式な修行は必要であるという意味だ)
極端な話、どんな人間でも密室に閉じ込めて、最低限の食事だけを与えながら1人で生活をさせたら、”無”の世界に突っ込ませることはできると思う。
ただ、どれだけの人間が正気を保っていられるのか。ほとんどの人間は頭がおかしくなってしまうのではないだろうか。(『銀と金』にそういうエピソードあったよね)
■ ゆる無
ぶっちゃけ僕はあまり”無”に突っ込みたくない。今のところは適度に快楽を追っかけまわしながら娑婆に留まっていたい。
もちろん、サラリーマン生活を40年続けるのもきついが、”無”を40年やるのもおかしくなってしまいそうだ。
こんな生き方はちょっとダサいような気もするけど、しばらくは”無”の浅瀬でちゃぷちゃぷしていることにしよう。
原点回帰、ゆるふわ無職。ゆる無。