horror and death

今日の日記は2本立て。

 

■ ホラー

ツイッターでバズっていた怖い話を読んだ。

近畿地方のある場所について

いやー怖い。

前にこんなイキったツイートしちゃったけど、普通に深夜のトイレに行くのが嫌になった。

今回の「近畿地方~」は群像劇タイプの話というか、一見関係なさそうに見える単話を読み進めていくと、共通のなにか「恐ろしいもの」が見えてくるという構成になっている。

そういえば、前に話題になった「みさきる」もそういうタイプだったな、と連想した。

こうしたホラーが増えた理由を考えてみると、インターネットの在り方の変化が関係しているのではないかと思う。

 

僕は10代の頃にネットの怖い話を読み倒した方なのだが、その頃のネットには「アングラ感」というか、チープな無機質さと人間の生々しさが共存する「得体の知れなさ」があった。

そういった要因も「想像力」を掻き立てるエッセンスであり、「奥行き」を生み出す作用を持っていたものである。

(まあ、若くて感受性がフレッシュだったということもあるだろうが)

だが、今のインターネットはどうだろう。

ググれば量産型の「いかがでしたかブログ」が蔓延り、ツイッターでは「断言します。詳しくはプロフで~」というマルチビジネスアカウントが横行する時代である。

おすすめ欄に表示されるのはいつも冷笑・晒し・対立煽り……、そして全てが「金儲け」に回収されていく。

未開の地であったインターネットは、都市化によって明るく照らされてしまった。

こんな場所で「古くから村に伝わる呪い」を信じろと言われても不可能な話である。

 

ホラーの本質とは、「分からないから怖い」だと思うのだ。

幽霊はなぜ存在するのか。

なぜ幽霊は私を呪ってくるのか。

幽霊に呪われたらどうなるのか。

呪われたら死ぬのか。

死んだらどうなるのか。

これらは「分からない」。

科学的な手段では「どうすることもできない」。

だから、恐ろしい。

そして、「恐ろしい」から「恐ろしくなる」のである。

想像力がハウリングのように恐怖を倍増させるのだ。

 

そういった意味でホラーに不可欠なのは、「想像」と「それが可能な余地」である。

だから、昔のインターネットの怖い話は素朴に恐ろしかった。

今では「テンプレw」とツッコまれるような話たちも、インターネットの奥行きによって、恐怖を醸し出していたのである。

しかし、現代ではそれが無くなってしまったのは、前述した通りだろう。

 

それ故に、令和のインターネットホラーは「群像劇」や「アーカイブを提示する」という形式で、読者の中に「想像のスペース」を生み出すようになったのではないか。

「近畿地方~」がウケたのは、単なる偶然ではないように思う次第である。

 

 

■ デス

「死ぬのが怖い」という感覚が最近和らいできた。

フィクションや他者の死ではなく、紛れもない「この私」の死。

時間や空間といった形式さえ存在しない、絶対的な無。

そういった恐ろしさは変わらない。

だが、この<生>の神秘性や異常性をよくよく洞察してみると、<生>と<死>は「同質」「同クラス」「同ステージ」なのではないかと思うようになってきたのだ。

なぜか不可解に、今この<生>が発生している……。

そのような「驚き」や「畏怖」を意識してみれば、<死>も同じようなものなのではないのか。

 

――未だ生を知らず、いずんぞ死を知らん(by孔子)

未だに生(人間としての生き方)を知らないのに、なぜ死のことが分かるのか。

孔子は「死とかあれこれ考える前に、この社会で人間としての道を全うしろ」と現実主義を主張していたのかもしれない。

だが、このセンテンスだけを切り取ってみれば

「<生>の分からなさ = <死>の分からなさ」

であると読み取ることもできる。

 

ちょっとスピっていて、よく分からなかったかもしれないが、伝わる人には伝わってくれたら嬉しい話であった。

 

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