濃霧の橋の上で

結局、生と死なんじゃないですかね。

あらゆる問題の根源は。

みんなそれに無自覚なだけで。

生と死の根源的な不安によって、何かにすがりながら生きているわけですよ。

 

例えるなら、僕らは濃霧の橋の上に立っているようなものなんです。

橋の始まりも見えず、橋の終わりも見えない。

だけど、とにかく進むしかないらしい、と。

 

ここで、「橋の始まり」っていうのは、世界の始まりのこと。

そして、「橋の終わり」っていうのは、世界の終わりのこと。

 

みんな、これってどうなっているか分かります?

「なぜこの世界は存在しているのか(なぜ私は存在しているのか)」

原因が一切不明ですよね。

「ビッグバンが起こったから」っていうのがありがちな回答かもしれないけれど、「じゃあ、そのビッグバンってなぜ起こったんですか?」という話になる。

 

だから、比喩の世界に戻ると、「橋の始まり」っていうのは、一切明確に存在が保証されていないんです。

それで、これは「橋の終わり」も同じ話。

世界の終わりなんてものは、いつどうやって訪れるのかよく分からない。

次の瞬間、電源が急に抜けたように「終わる」のかもしれないし、「自身の死」=「世界の終わり」なのかもしれない。

もしくは、死んでも生まれ変わって、橋を歩く作業はずっと続くのかもしれない。

こういう風に考えていくと、同じように「橋の終わり」も濃霧に包まれているはずなんです。

 

これってめちゃくちゃ不安じゃないですか?

だって、橋の上に立っているのに、その橋がどうなっているのかよく分からないんですよ。

そして、「とにかく進むしかなさそう」なんだけど、その根拠もどこにもないんです。

 

そんな状況で、現代の人々がどうやって正気を保っているかと問われたら、それはやはり「科学主義」なんじゃないでしょうか。

科学に基づくと、「どうやらそうらしい」ということが分かります。

「昨日も、今日も、太陽は東から登ったので、明日もそうに違いない」と。

そうやって検証していくと、世界の「おそらく確からしい」ことが明らかになっていく。

橋の世界で言うなれば、足元の頑丈な造りや、手すりやフェンスの存在を確認することができる。

これは大きな安心感を生みますよね。

 

ただ、それって絶対ではないはずなんです。

あくまで帰納法によって、「明日も太陽は東から登るだろう」と推測しているだけで、そこに絶対的な根拠はない。

次の瞬間、急に宇宙の物理法則がめちゃくちゃになってしまうことだって可能性は0%じゃない。

科学主義は帰納法信仰で、そして、その帰納法信仰には神が不在なんです。

(帰納法の弱点については、ヘンペルのカラスでググってみてください)

 

勘違いしないで欲しいのは、別に僕は「科学」を否定しているわけではないんですよ。

むしろ、基本的には科学に従うべきだと思っている。

インチキ療法とか、スピリチュアル療法とかには嫌悪感まである。

けれども、科学は僕らの存在根拠を、保証してくれるわけではないんです。

次の瞬間、世界は終わってしまうかもしれない。

頑丈そうに見えた橋も、突然崩れ落ちてしまうかもしれない。

これは事故や災害の比喩(落雷で急に死ぬとか)ではなくて、本当に、次の瞬間、世界が不条理に終わってしまうかもしれないということです。

(この不安感、伝わりますかね?)

 

また、別の観点から、現代人を見てみれば、僕らは「差異」によって自身の根拠を確認しているように思います。

例えば、自分の好きなブランドを身に付ける。

そうすることによって、「私はこういう人間だ!」ということを確信した気になれる。

もしくは、社会で一定の地位に就くこと。もしくは、他の人間と関係を結ぶこと。

そういった営みの中で、「自分のポジション」を確認することができる。

こういった人間の在り方は、資本主義とも相性がいいですよね。

「私だけが知っているカルチャー」とか「私だけが立つことのできるポジション」みたいな欲望を煽って、金を使わせたり、金を稼ぐことを駆り立てる。

 

とはいえ、なんか偉そうに指摘してますけど、僕も同じ穴のムジナなんですよ。

こうやって、テツガクっぽいことを語るニートとして、自分のキャラを確認しようとしている。

そんでブログに広告を貼ったり、電子書籍を売ったりして、小銭を稼いでいる。

やっぱり、こうでもしないと不安なんですわ。怒ったりしないでくださいね。

 

メインテーマに戻ると、やっぱり僕らには絶対的な根拠――宗教的な根拠が欠けているんですよ。

例えば、キリスト教徒なら、橋の始まりは「神が作った」だし、橋の終わりは「神の王国に行く」ですよね。

逆に、原始仏教ならば、「世界の始まりとか世界の終わりについてはノーコメント。そんなことよりあなたの苦しみをどうにかしなさいよ」という方針を与えてくれるわけです。

(→ 「無記」とか「毒矢の喩え」で有名な話ですね

 

その一方、現代には先ほど指摘したような「世間教」も存在するわけです。

「資本教」でも「労働教」でも「日本教」でも「科学教」でも、呼び方はなんでもいいんですけど、世間の常識を丸ごとひっくるめた価値体系のこと。

資本主義・科学主義・世間の常識の中で、自身の根拠を確保していくということです。

多くの人はこれに従って生きているわけですよね。

 

伝統宗教を信仰するのか、世間教の中で生きるのか。

まあ、この世界の中で正気を保つには、このどちらかしかないんじゃないでしょうか。

第3の道としては、伝統宗教も世間教も否定する――すなわち、「哲人」を目指すって選択もあるのかもしれないですが、これは本当にキツいと思います。

まともにやろうとすると、おかしくなってしまうような。

 

個人的な体感を語ると、誰しも人間の中には、「生(私がここに存在している異常性)」「死(死の未知さ・避けられない恐怖)」の問題が存在していると思うんですね。

人によっては無意識レベルだったり、埃をかぶって埋もれてしまってるのかもしれませんけど。

それで、そういった生や死の問題は、宗教の回路に組み込んでしまったり、世間教の享楽やポジショニングで塗りつぶしてしまったりすることができるわけです。

 

ですが、哲人として生きるということは、そういった宗教的な価値観も、世俗の生き方も否定するということですよね。

すなわち、生と死の問題を直視する必要がある。

これが「哲学的な戯れ」だったら、別に構わない問題なんです。

むしろ、これは世間教の範囲内というか(「オレってテツガク的なことに挑戦してるよね」というポジションの確保)。

でも、これを続けていると、いつか「問い」が「体感」に変わってしまうときがある。

「なぜ私はここに存在しているのか?」「死んだらどうなるのか?」

そういった問いが、思考の範囲内ではなく、生々しい実感に変わってしまったとき、狂気の一端に触れることになる。

これが健全で正しいことであるとは、僕にはあまり思えないんです。

パワポで頑張って作った図

 

では、どうすればいいのか?

いや、それが分からないんですよ。

こっちが聞きたいぐらいだよ、っていう。

 

ただ、「一神教の神に世界の始まりも終わりも委ねない」「世間の価値観で生死の問題を誤魔化さない」となると、それを代々実行してるのは「仏教(特にテーラワーダ)」ということになるのかな、と思う。

けれども、その一方で、僕は「あなたの問題は全て仏教で解決できる問題です」と、個人の実存的な問題を全て仏教に回収されてしまうことを恐れてもいるんです。

いや、もちろん、そういうポテンシャルがあるからこそ、仏教は宗教足り得たのだと思うし、人類の普遍的な苦しみを汲み取って、ここまで普及したんだと思うんですよ。

ただ、まだもっと西洋哲学も含めて、様々な価値観を学んでみるべきじゃないのかと。

まだ自身の中で、1人で、答えを出すべき物事もあるんじゃないかと。

今のところはそういったスタンスでいます。

まあ、こういったウィンドウショッピング感覚で色んな思想と接していること自体が、信仰とは甚だ遠い場所にいるのかもしれませんがね……。

(あと、ダラダラしてるのが好きなので、戒律を守れる気がしません)

 

(おわり)

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