このテクニックを伝えるのが正しいのかどうか。
もしくは、正しく伝わるかどうか分からないが、とりあえず記述してみよう。
世の中にはつらいことが多い。
大きい苦痛から小さい苦痛まで、よりどりみどりである。
例えば、僕の場合、一昨日は頭がなぜか痛かったし、昨日は蚊に刺されが足に3か所もできて痒かったし、今日は相変わらずの倦怠感に包まれている。
しんどい。つらい。やってらんない。
そういう気持ちである。
ただ、こういうときに使えるのが、苦痛を「楽しむ」でパッケージしてしまうというテクニックだ。
どういうことか。
例えば、「だるい」のならば、「だるいこと(苦痛)」を楽しんでみる。
主体的に、エンターテイメントとして、「だるい」を味わってみるということである。
そうすると、なんだか苦痛の絶対性が無くなってくることが実感できるはずだ。
つらいことの何がつらいのか。
それは「コントロールできないからつらい」のだと思う。
苦痛を自分でどうにかできるのならば、そこまで恐ろしいものではない。
そういうわけで、疑似的に「自分から苦痛を味わってますよ」というスタンスにしてみることによって、迫り来るような絶対性を緩和しているのである。
更に言えば、「つらいこと」に対して「つらい」という受け止め方をしてしまうから、苦痛が更に増幅されてしまうという側面があるはずだ。
例えば、僕はパニックで座り込んで動けなくなってしまったことがあるのだが、あれは「やばい」という気持ちを「やばい」と思うことによって、更に「やばく」感じてしまうという、負の爆発的連鎖だったように思う。
ここで、「あー、マインドフルネスとかで言われる、『勝手に感覚にラベリングするな』って話のこと?」と思う方もいるかもしれない。
しかし、それはちょっと違うのだ。
このテクニックは、あくまで「つらいものはつらい」と認識する。
その上で、「受け取り方」を変えてみよう、という話なのである。
[根源的な感覚] ↓ [ラベリング:苦痛]←これはそのまま ↓ [受け止め方:楽しんでみる]←ここを変えてみる
図にしてみると、こんな感じだろうか。
ただ、こういう話をすると
「つらいものはどうあがいたってつらいんだよ。舐めたこと言ってるとぶっ〇すぞ!!!」
と思う人もいるかもしれない(僕もめちゃくちゃつらいときに、この記事の内容を”説教”されたらそう感じるだろう)。
実際、「ハードな事故や病気による圧倒的な苦痛」「長時間で慢性化した抜け出せない苦しみ」に対しては効果が薄いように思う。
そして、「苦しみ」を個人のライフハックで、やり過ごすことが社会全体にとってプラスであるのかどうかも分からない。
(まるで、メンタルヘルスの管理さえ自己責任の時代のようである)
「蚊に刺されがかゆい」ならまだしも、「労働による苦しみ・憂鬱感」などは社会の問題として声を上げた方がいいのではないか。
僕はそう思うわけである。
まあ、このテクニックはあくまで痛み止めと言うか、ちょっとした苦しみに対する家庭用医薬品ぐらいの感覚で使用してもらうのがよいのかもしれない。
(おわり)