おれはなにがしたいんだ?

■ なにがしたいのだろう

タイトルの通りである。

僕はなにをしたいのだろう。

もっぱらよく分からなくなってきた。

最初は「ニート肯定論」のようなものをブログやツイッターに投稿していたが、そこにもあまり意義を感じられなくなってきてしまった。

多分、インターネットで有名になったり、そこでお金を稼ぎたいのだったら、自分を強烈にキャラ付けしたり、あえて過激な発言を繰り返すことによって、エンタメ性を高めた方がいいんだろうけど、そういった方向に振り切れるようなタイプでもない。

ただ思っていることをなんの捻りもなく書き出す謎の肉塊になってしまった。

 

■ シンプルにだるい

この夏はだるさがひどかった。

ろくに本も読めないし、暑くて散歩もできない。

伸び切ったカエルのようになっていた。

最近は暑さがマシになってきたけど、季節の変わり目特有のだるさも感じる。

「だるい」っていうワードは、pha氏を筆頭に、ニートだったり、社会不適合者な人がよく使うけど、みんなの「だるい」がどれくらいのものなのだろうか。

僕はものすごくだるい。

ヤンキー的な「面倒臭いから反抗している」というニュアンスの「だるい」ではなく、本当に体と心がだるいのだ。

全細胞の1つ1つに重りが括り付けられているような。そして、すぐに立ちくらみで倒れそうになる。

「なにかの病気か?」と思ったが、今年の春に受けた健康診断では特に問題はなかった。

ただの甘えなのか? 鬱の後遺症なのか?

なにも分からない。だるい。

 

■ おれになにも押し付けないでくれ

最近、世界中で「働かない人」が増えているというニュースをよく見かける。

中国の「寝そべり族」や、アメリカの「大退職時代」は話題になったが、最近では失業保険を利用して働かない若者や、正社員であっても最低限の仕事しかしない「静かな退職」を行う人々が増えているらしい。

まあ、それも1つの時代の流れであり、脱労働というムーブメントにはもちろん肯定的なんだけれど、「働かないこと」に対して、あんまり政治色が強すぎるのもめんどくさいんだよなあ、と思ってしまう。

例えば、僕はこの前

「(ノンポリ的な態度も無責任なのかもしれないが)おれがやりたいのは『働かないことによって世界を動かしているのだ』という物語によって気持ち良くなることではないような気がする」

というツイートをしたんだけれど、これがある方から批判されていた。

「だったら寝そべり族なんて名乗るなよ」、と。

寝そべり族っていうのは中国の競争社会に対するカウンターカルチャーだから、もちろん反体制的で、反資本主義的なものだ。

確かに、それでノンポリだというのは、筋が通っていないだろう。

そこは僕が悪かった。認めたいと思う。

ただ、なんで僕が「働かないこと」と「政治」を結びつけたくないのかというと、まさに”こういうこと”なのである。

 

僕は「価値観の押し付け」が嫌いなのだと思う。

いい大学に入って、いい企業に入れば幸せになれると盲信していた母親のことも嫌いだったし、正社員で働くことや結婚することが正しいとする世間の風潮も嫌いだ。

そして、その一方で「ニートやリタイア生活が最高」「働いているやつや、結婚しているやつは奴隷」とするような「逆の価値観の押し付け」にも嫌気がさす。

そもそもとして、僕は「教義の押し付け」が嫌いなのだ。

ただ宗教Aから宗教Bに乗り換えただけなのに、自分だけが唯一無二の真理を悟ったような顔をしないでほしい。

そして、それは宗教Cでも同じことである。

すなわち、「政治」だ。

 

強く政治色を持っている人の嫌なところは、「間違いなく自分は正しいことをしている」という自惚れと排他主義である。

例えば、ニートと政治が強く融合した場合、こういうことが起きるだろう。

「ただボケーっとして働いていないやつは、正しくないニートだ。総括しなければならない!」……と。

 

そもそも、僕は「働かないこと」と「政治」に無関心なわけではない。

けれども、ビートニクもヒッピーもだめ連も、資本主義に打ち勝てたかといえば、そうではないじゃないか、と思ってしまう。

おそらく、00年以降を生きている働きたくない人々は「デモなんてしても無駄」「静かに抵抗する」「沈みゆく日本で穏やかに暮らす」というような態度が強いんじゃないだろうか。

それこそ、「サイレントテロ」などは有名であるし、ニートカルチャー(?)である「ギークハウス」や「山奥ニート」も政治色は薄い。

もうみんな、政治の暑苦しさには疲れているのである。

 

ただ、(ノンポリ的なことを言っておきながら!)本当に政治や暮らしに無関心なのも、それはそれでどうなのかなあ、と思ってしまう次第である。

僕は世の中はもっと平等に皆が楽に暮らせるようになるべきだと考えているし、無理のない範囲で自分が助けられるものは助けたいと思っている。

側から見れば、”左っぽい”と言われることになるのだろうが、「僕はこういう人間です」として生きた結果、何かしらの判定を下されることはままあるだろう。

それは逃れられないというか、まあ仕方ないことなのかな、とは思う。

 

ただし、僕は自分の生き方が正しいと思っているわけでもないし、それを他人に強制するような気持ちもない。

なんせ、「おれはなにがしたいんだ?」の心境であるのだから……。

 

(p.s. “左っぽい”と言ったけど、日本も普通に嫌いじゃないよ。国や社会、資本主義の”恩恵”を無視して批判だけをするのも、また違うよな〜と思う)

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