脳内241014

[1]

ハウリングという現象がある。

これはマイクの音がスピーカーから出された際に、その音を再びマイクが拾ってしまい、音のループによって特定の周波数だけが増幅されて、不快な音が発生する現象のことを指す。

カラオケで「キーン」となってしまうアレだと言えば分かりやすいかもしれない。

 

僕はよく精神がハウリングしてしまう。

具体的な悩みでも、観念的な不安でも、目の前のトラブルでもなんでもいいのだが、「ヤバい」と思ったことに対して「ヤバい」と思ってしまい、具体性を欠いて抽出された「ヤバさ」だけが無限に増幅され、うまく呼吸ができなくなって、その場にうずくまってしまう。

明確に診断されたわけでもないので、あまり具体的な病名を出すのは良いことではないかもしれないが、パニック障害に近いものかもしれない。

 

例えば、「死」について考えすぎるのはよくない。

死ぬこと。永遠に無になること。

それから絶対に逃れられないこと。

そうした「死」の「ヤバさ」について考えすぎると、ハウリングを起こしてパニックになってしまう。

 

また、この「生」の異常性について考えすぎるのも、同様だ。

目の前に意味も分からず世界が出現していること。

なぜか私が私であること。

“そう”でなくてもよかったはずなのに、”そう”であること。

こうした「生」の「ヤバさ」について考えすぎると、これまたハウリングを起こしてパニックになってしまう。

 

パニックはつらい。特に、外出時にそうした症状が出てしまうと非常に困る。

(「外でパニックになったらヤバい」という考え自体が、外でパニックになりやすさを上昇させているのだが……)

 

では、パニックを起こさないためにはどうすればいいのか?

参考のため、実際の音響トラブルとしてのハウリング対策をここで見てみよう。

① マイクのスイッチをオフにする
② マイクとスピーカーの距離を離す
③ 音量を下げる
④ イコライザーを使用して、ハウリングを起こす周波数成分をカットする

ハウリングの原因と対策 | プロ音響ドットコム – http://www.pro-onkyo.com/onkyo-sokutei/howling/

 

① マイクのスイッチをオフにする

⇨ スイッチをオフにする……つまり、死ねば解決するということか??

 

② マイクとスピーカーの距離を離す

⇨ 精神的ハウリングの原因は「『ヤバい』と思ったことに対して『ヤバい』と思ってしまうこと」であった。

つまり、「『ヤバい』と思ったことを、『ヤバい』と思わない」「『ヤバさ』を再入力しない」のが具体的な対策だと言える。

ヤバいのはただ単にヤバいだけであって、ヤバいことに対してヤバいと思う必要はない。意識的にヤバループを止めるべし。

 

③ 音量を下げる

⇨ つまりは、心へのインプットを下げる。

穏やかな生活を心がける。もしくは寝ている状態などもこれに相当しそうだ。

ただ、生きている限り「ヤバい」ことは暴走トラックのように脈絡もなく心の中に突っ込んでくるわけで……。

 

④ イコライザーを使用して、ハウリングを起こす周波数成分をカットする

⇨ プレゼンスやハイをカットすれば、実際のハウリングは収まることが多い。

向精神薬で「不安感」をそもそもカットしてしまえば、負のループは起こらないということか。

 

実践しやすさで言えば、②と③が主流になるだろう。

感情の波に飲み込まれず、マインドフルネス(?)を意識する。

そして、外部の「ヤバくなる」原因を避けて、穏やかなインプットを心がける。

これが模範的な回答であると言えそうだ。

 

……ただ、ハウリングやフィードバックはうまく使いこなすと”かっこいい”のも事実である。

“ステージに上がる人”はそうした技術を習得するのも必要なことなのかもしれない。

僕は疲れるのであんまりやりたくありません。

 

[2]

おそらく、このブログをAIに要約させたら、こんな答えが返ってくることだろう。

「このブログは『人生が苦しい』ということについて、ひたすら語っています」と。

ちゃんと数えたわけではないが、おそらく8割ぐらいが暗くてネガティブな話であるような気がする。

いつまでそんなことをしているんだ? ジジイになるまで鬱ブログを続けるつもりか?

というわけで、逆に「なんだったら幸せなのか?」ということを考えてみたい。

 

まず、死にたくない。

あと、老いと病気っていうか、痛くて苦しいのが嫌だ。

でも、永遠に死ねないのも困る。好きなタイミングで死にたい。

そして、その上で世俗的な享楽を存分に寄越してくれ。

……まあ、このぐらいで「仕方ないから幸せだと言ってやってもいいかもしれない」と思えるだろう。

 

だが、そうした理想の自分が実現したとして、それは自分なのだろうか?

(理想の)不老不死になれば、人間的な社会性はおそらく喪失するだろう。

生きるために”気を遣う”必要がなくなるからである。

何もすることがなくなった後は、至る所で叫び声を上げ続ける狂人になるか、石地蔵のように何も物言わぬ存在になるはずだ。

 

現在の人格や意識が現出していることは、老病死と表裏一体である。

そうした生物的な条件の下で、僕らの人格は形作られているに他ならない。

理不尽に与えられた自己をやりきるか。もしくは全てを捨て去るか。

究極的に考えれば、生き方とは、そのどちらかの二者択一になるのだろう。

 

[3]

精神的にボディブロー級のイベントが2,3連発してしまい、10月上旬はメンタルがダウンしていた。

具体的には、1人で突然記憶を思い出して「うワアァ!!」となる出来事のバリエーションが増えるぐらいのダメージを負った。

そして、メンタルを負傷する度に思うのは、その度に心が不感症になっていく、ということである。

 

僕は第一印象で「大人しそう」とか「ちゃんとしてそう」とか言われることが多いが、そんなことはない。

何重にも重ねた殻を引っぺがしていけば、そこにはドロドロとした幼児性が詰まっている。

 

結局、僕は傷つくことが怖いのだ。ビビりなのだ。

だから、「始めから何も求めなければいい」と、傷付く度に”かさぶた”を厚く張り、悟ったような顔をする。

それが「大人になる」ということなのだろうか? 「社会との折り合いをつける」ということなのだろうか?

 

なんにせよ、明確に分かるのは僕が「半端もの」なのが悪いということだ。

今回のメンタル負傷イベントも、僕が半端な人間でなければ発生しなかったことだ。

子供のように貪欲に真っすぐ全てを楽しむのか、大人のようにそつなく全てをこなすのか、ハッキリさせておくべきだったのだ。

 

とはいえ、それができれば苦労はしねェ!案件でもあるのだが。

 

[4]

秋、本当に10日ぐらいで終わって笑った。

9月下旬とかアチアチだったのに、10月中旬でもう初冬じゃん。

 

逆張りオタクのくせに、季節の変わり目にしっかり風邪を引いてしまった。

そういうコテコテのイベントはやらなくていいから……。

 

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