■ 僕は「孤独」である
夜の河川敷を散歩をしながら「孤独」について考えていた。
孤独……僕は孤独である。
だが、それは「1人で散歩をしているから」ということではない。
また、「友達がいない」や「社会に居場所がない」とも違う。
もっと、そう、本質的に人間は「孤独」であるのだ。
■ 「人との繋がり」の正体とは
例えば、今でも僕は学生時代の友人と遊んだりすることがある。
酒を飲みながらくだらない話でもしていると、「人との繋がり」を感じるものだ。
だが、そういった「友情」や「共感」の正体とは何なのだろう。
突き詰めて考えてみれば、それは「言葉(音の並び)」や「表情(視覚的な認知)」のまとまりにすぎないのではないか。
「分かるわあ」と言いながら「笑顔」を向けられれば、それは「共感」であるように感じるし、
「そりゃつらいなあ」と言いながら「悲しい顔」を向けられれば、それは「同情」であるように感じる。
もし、僕の友達が、いや、僕以外全員の人間が「人間に限りなく近いロボット」だったとしても、僕にはそれを見分けることができない。
「人との繋がり」とは、極端な話「情報的なモノ」に還元できてしまうのではないか。
■ 全ては主観であり共有不可という「孤独」
いや、僕が言いたいのはそういうことではない。
上記のトピックは少し話がズレてしまった。
例え、「人との繋がり」が「情報的なモノ」であっても、
相手がロボットだろうと、エイリアンだろうと、そこは別になんでもいいのだ。
そこに「心」や「繋がり」のようなものを感じたのなら、それはある意味、絶対的にトゥルーでリアルなのである。
問題はそこではない。とどのつまり、全ては「主観的な感覚」で「それを真に共有することはできない」ということ。
これが僕の言いたい「孤独」である。
■ 「僕」と「あなた」の絶対的な隔たり
例えば、僕が不治の病にかかったとする。
余命は半年。そして、全身に苦痛が襲い掛かる。
こんな状態になれば、優しい人々は
「大丈夫か?」「頑張れ!」「変われるなら変わってやりたい」
と言ってくれるかもしれない。
そういった言葉は確かに励ましになるだろう。大いに助けられると思う。
だが、そのような病気の苦しみを「真の意味」で共有することはできない。
痛みを共有したり、身体を交換したりすることは不可能であるからだ。
そして、死ぬときは絶対的に「独り」で死んでいく。
結局、「僕」は生まれてから死ぬまで「僕」であり、「あなた」は生まれてから死ぬまで「あなた」である。
他者とは「コミュニケーション」という枠組みの中でしか、理解し合うことができない。
どうあがいてもどうにもならない人間の孤独が、そこにはある。
(念のため繰り返すと、僕は「人との繋がり」が「嘘」だとか「まやかし」だと主張したいわけではない。
それは間違いなくリアルであるし、お互いがお互いを救うこともあると思う。
けれども、それはあくまで「そういった枠組み」の中の出来事でしかない。
言ってしまえば、「人との繋がりに救われた」という感情さえ、「(他者とは真に共有することのできない)主観的な感覚」にすぎないのだ。)
■ 人は孤独に耐えられない
なぜ僕はこんな文章を書いているのか。
それはやはり、孤独に耐えられないからかもしれない。
「人間は独りで生まれて独りで死んでいく」
そういったどうしようもない事実を「ごまかし」「まぎらわし」「うめあわせる」ために、他人との交信を試みているのだろう。
(書き終えて思ったんですけど、『カイジ』の鉄骨渡りみたいな内容でしたね)