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昔(ゼロ年代のインターネット)からニートや社会不適合者、ダメ人間の嘆きとして、こんなものがある。
「街で幸せそうなカップルや親子連れを見かけると、自分が惨めに思えてくる(または相手が憎くなってくる)」
「別の人間(優れた能力や容姿を持った人間、もしくは芸能人やアスリート)として生まれたかった」
「社会の底辺である自分が恥ずかしい」
などである。
まあ、これは今でもツイッターなどで、よく見かけるものだろう。
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しかし、いくらかの反感を買うことを承知で言うが、僕は上記のような気持ちがよく分からない。
今日はそういったある種の個人主義(もしくはナルシズム?)について語ろうと思う。
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まず、初めに伝えたいのは「あなたはあなただからあなたである」ということだ。
どういうことか。
嚙み砕いて言えば
「あなたは(そういった肉体や環境で育った)あなただから(現在の)あなた(という人格や意思が形成されているの)である」
ということだ。
それ故に、今の「あなたの人格」を維持したまま、優れたスペックを持った別の人間として存在することは有り得ないのである。
そう考えると、「もっと良い○○に生まれたかった……」という仮定的な考えは、全てありえない話なのだ。
初期ステータスや成長過程が変更されてしまった時点で、「あなた」は「あなた」で無くなってしまうからである。
ある意味とても残酷なことであるが、あなたはあなたの「運命的なもの」と向き合うしかないのだ。
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次に、ツッコミたいのは「なぜ全く無関係な他人をそんなに気にするのか?」ということだ。
例えば、あなたは地球の裏側のブラジルで、顔も性格も知らないAさんとBさんが幸せに暮らしていたら、それを「憎い」とか「羨ましい」とか思うのだろうか?
(99.9%の人は「いや、別にどうでもいい……」と答えるはずだ)
街で見かける幸せそうな人々や、TVで活躍しているスターや芸能人だって、それと同じなのではないか。
何が「あなた」に関係あるのだろう。
見知らぬ他人に対して、そういった感情を抱いてしまうのは、あなたが見知らぬ他人と自分を勝手に比較して、勝手に苦しくなっているだけのことである。
そんなもの今すぐやめてしまえばいい。
だが、僕も別に全然「できた人間」というわけではない。 リアルな知り合いや、同じ種目や競技に取り組んでいる人間に対しては 「チッ、上に媚びへつらいやがって……」とか「シャバい方法で売り出しやがって……」とか思う(思った)ものである。 (リアルでの知り合いや競争相手を妬むのは普通だが、全く関係のない他人を勝手に妬むのはおかしい、と主張したい)
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3つ目に、「想像するならちゃんと細部まで想像しろ」ということだ。
例えば、ニートなら、妻子(または夫・子供)を持ってちゃんと働いている同年代の人を羨むのかもしれない。
あの人の人生と自分の人生が入れ替わればいいのに……と思ったりするのだろう。
だが、それはちょっと浅はかなのではないのか? と考えてしまうのだ。
一見どんなに順風満帆な人生を送っているような人でも、その人にとってはどんな苦しみがあるのか分からない。
仕事の悩み、人間関係の苦しみ、中間管理職の板挟み、パートナーとのいざこざ、育児の問題、介護の不安……。
もしかしたら、本人にしか分からないとんでもない闇を抱えている可能性だってある。
ポジティブな面だけを捉えて、相手を羨んでしまうのは、想像不足なのではないだろうか。
(ニートやフリーターの人だって、「○○はのんびり生きれていいよなー」と言われたら、「私には私なりの苦しみがあるんだッ」と言いたくなるはずである)
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4つ目に、「果たしてハイスペックに生まれるのが必ずしも幸せなことなのか?」ということだ。
誰だって優れた容姿や頭の良さには憧れるだろう。
そして、私はなぜこんなに「無用」なのか……と思うわけである。
しかし、ここで考えてみたい。
ハイスペックに生まれることは必ずしも幸せなのだろうか?
例えば、「美しい容姿」を持って生まれた人は、「狙われやすくなる」という恐ろしいデメリットがある。
ストーカーや性犯罪者に襲われる可能性もあれば、怪しい業者やスカウトに勧誘されて食い物にされる可能性もあるだろう。
(男だって芸能事務所の性虐待が大きくニュースになったのは記憶に新しいはずだ)
そして、知能でも容姿でも、優れた才を持つ者は更なる競争に駆り立てられることになる。
「私はもっと出世できるはずだ。お金を稼げるはずだ」
「○○には負けたくない。私はこのグループで一番だ」
「ナメられたら終わりだ。いい暮らしをしなければ」
「私はもっと美しくなれる! 私にはもっと見合った相手がいる!」
こうして、終わりのない競争と泥沼に取り込まれ、彼らは資本主義の養分となってしまうわけだ。
優れているように見えて、ある意味では「強い搾取」を受けている存在なのでもある。
こういった教訓でよく思い出すのが、荘子の「無用の用」だ。 この教話には様々なパターンがあるが、有名なのは 「木材として無用な木は長生きすることができるが、木材として有用な木は切られたり実をもがれたりしてしまう」 というものである。 「無用」も悪いことばかりではない。
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最後に、まとめとして言いたいのは
「ダメ人間にはダメ人間という役割があるのではないか」
ということだ。
人間は農業を発展させ、社会に余剰が生まれたころから、「働かない人々」が存在するようになった。
それは支配階級から始まったものの、次第に、学者、僧侶、芸術家、詩人などを生み出すようになる。
更に、フーコー『狂気の歴史』を参考にすれば、ルネサンスまでは(今の価値観で言う)「ダメ人間」や「おかしいひと」を受け入れる土壌が社会にはあったそうだ。
(狂気はある種の「真理」であった。例えば、古来から精神障害者にはシャーマンの役割が与えられていた、という説があるように)
近代以降は、勤労が美徳と化し、「それができないものは矯正すべし」となってしまった。
しかし、どんな時代になろうと、「ダメ人間」というのは一定の需要がある(というか「発生」してしまうもの)なのではないかと僕は考えるのだ。
例えば、フーテンの寅さんはぶらぶらと生きているが、国民的に愛されるキャラクターとなった。
もちろん、ダメ人間をしていると、「ああなったらおしまいだぞ」などと言われることもあるかもしれない。
しかし、バカにされたりするのも、それはそれで「ダメ人間」の役割(仕事)なのではないだろうか。
そういった「役割」を全うしよう……と考えるのも、社会的動物として1つの生き方であるように思うわけである。