武術は弱者が身を護る為に存在する。
フィジカル(肉体)が劣る者でも、体格差のある強者に殺されてしまわぬよう、対抗手段として編み出され、発展したのだろう。
フィジカルが弱い人は護身の為に武術を学ぶ。
それでは、メンタルが弱い人はどうすればいいのだろうか?
心を護るには「哲学」を学ぶ必要があると考える。
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自分はメンタルが弱い。
それに現代社会はストレス過多だ。
ぼーっと生きていたら何のために頑張っているのか分からなくなり、1年ほど引きこもりになってしまった事がある。
そこから立ち直れた理由は色々あるが、そのうちの1つは「読書」だった。
世の中には様々な「生き方」や「考え方」があることを知る。そんな作業が必要だ。
現代社会は世間体と同調圧力が強い。
「正社員じゃなかったら落ちこぼれ」、「年収◯◯◯万円以下は負け組」、「◯◯歳までには結婚するべし」、「家を建てて子供を持って一人前」、etc…。
自分は良くも悪くも「真面目くん」であったので、昔はそのような価値観を本気で信じていた。
引きこもりニート時代にはその理想と現実のギャップに苛まれたものである。
「自分なんか生きている価値は無いのだろうか」
「正しい在り方」を達成できない人々が、そう思い込んでしまうのも仕方ない。
しかし、「そんなものは現代社会における相対的な価値観に過ぎない」と、読書は淡々と教えてくれた。
水槽で生まれた生物は「水槽の中が世界の全てであり、この世のルールである」と認識してしまう。
現代社会に生きる人々もそれと同じだ。
人間の「正しい在り方」ってなんだろう。
たまに「無職やニートは人間失格!」と主張する人がいるが、それだったら尋ねてみたい。
「人間の”正しい在り方”とはなんですか?」
と。
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ニートは布団に寝転びながら、テキトーな人生哲学を作り上げがちだ。
(「今が楽しければそれでいい!◯◯歳になったら死んでやる!」みたいなやつ)
しかし、それは電球のヒモボクシングのみで世界チャンピオンを狙うようなものである。
本当に”強く”なりたいのであったら、まずは先人達の思想体系(技術体系)を学ぶ事が必須だ。
ブルース・リーは詠春拳(中国拳法)をベースに、ボクシング、フェンシング、サバット、テコンドー、柔道など世界中のあらゆる武術を研究し、「ジークンドー」という総合武術を作り上げたという。
自分も「自分なりの現代哲学」を思索中である。
まだまだ未完成ではあるが、以下ではそのベースになりそうな哲学・思想を紹介していきたい。
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【原始仏教】
仏教はヤバい。
現代では大衆的な葬式仏教のイメージが強いかもしれないが、ブッダが説いた「本来の教え」は人の営みに逆らうようなハードコアなものだ。
我々は”欲”と共に生きている。
おいしいものが食べたい。おもむくままに寝たい。たくさんセックスしたい。お金持ちになりたい。ブランドの服がほしい。イケてる車を買いたい。豪華な家を建てたい。…などなど挙げればキリがない。
もちろん、これらが”悪”という訳ではないし、人間社会は欲望によって発展したとも言える。
だが、ブッダはそんな人間の在り方に一石を投じた。
仏教における「苦」とは「不満足」を意味するのだという。
欲望を達成できたのなら、一時的には満たされるかもしれない。
しかし、その次に待っているのは更なる欲望だ。
終わりのない欲望スパイラル。
砂漠にジョウロで水をやり続けるような作業。
永遠の不満足。
そして、最終的に「死にたくない」という欲が満たされる事はない。
“執着”に取り憑かれた生き方は虚しいものだ。
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仏教ではこのような「苦 (不満足)」から抜け出して、「ただそこに在るだけで満たされるような境地 (≒悟り)」を目指そうよ、と言っている訳である。
「ただ在るだけで満たされる境地」
サラッと述べてしまったが、これはとんでもない事である。
「つまり、瞑想して穏やかな精神を目指せばいいんでしょ?」という単純な話ではない。
ブッダが主張したのは「因果関係の否定」だ。
「AによってBが起こる」
そんなものは当たり前である。
自分が書き込むことによってこの文章は作られているし、あなたがこの文章を読むことによって理解が生じている。
ここでもう一度よく考えてみてほしい。
「在るだけで満たされている」とは「Aという原因が無いのにも関わらず、満たされている」という状態を指すのではないだろうか。
たとえ、むやみに瞑想をしたとしても、「瞑想(A)によって悟る(B)」という関係(または、そのような「欲」)が存在している時点で、悟りを開く事は決して無いのである。
(「瞑想という”状態”」が「悟りに近づきやすい」のはあるだろう)
ブッダは因果関係こそが「苦」の本質的な原因であり、因果関係の存在しない世界に至る事が「悟り」であると主張しているのだ。
そして、それらを突き詰めれば「色即是空 空即是色(すべては『A=B』)」であり、「自分=世界」。
すなわち「無我」なのである。
うーむ、ハードコアすぎる。
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もちろん、これらの話を踏まえると、ブッダは「労働」を放棄している。
「労働(A)によって金銭(B)を貰う」のではなく、托鉢(食料の施し)によって暮らしていたそうだ。
とんでもないレジェンドニートである。
別に信仰を勧めている訳ではないが、欲望にまみれた現代資本主義社会と「真逆の在り方」である仏教を学んでおく事は、我々の知見を広げてくれるに違いないだろう。
次回へ続く(?)。(原始仏教編 完)