鬱病は治らない(けど、そこそこ楽しく生きている) – 鬱の改善法と付き合い方

2017年2月、正式に鬱病だと診断された。当時大学4年生である。

「何のために生きているのだろう」

大学に入学した辺りから、よく分からなくなってしまった。

大学生活も後半になれば、就活や院試など将来を考える必要があったが、なにもする気力が起きず、そのままギリギリで卒業した。

ひきこもり鬱病ニートの爆誕である。

そもそも、原因はなんだったのだろうか。

一種の「燃え尽き症候群」のようなものであったのかもしれない。

自分は「真面目くん」であり、「いい子ちゃん」であったと思う。

親は学歴主義者であり、「良い学校に入って、良い企業に入れば、良い人生を送れる」と考えているような人だった。

自分もそれなりに適応しようとしたが、主体的ではない生き方はいつか限界を迎える。

ぼちぼちの大学には入学したが、そこで心が折れてしまったようだ。

そして、鬱ニート生活は1年ほど続いた。

鬱は全てが「だるい」。

「生きる気力が無くなる」と表現してもいいかもしれない。

全ての行動は「生きる」為に行われていると言っても過言では無いだろう。(自己表現も含めて)

「生きる気力」が存在しないのだから、「何もできない」のは当たり前だ。

ただ、「死ぬのは怖い」という最後の生存本能によって、「死んでいないだけ」なのである。

今でこそ文章を書いたりできるようになったが、当時は「能動的な行為」が殆どできなかった。

寝て、食って、排泄して、寝る。

そんな自分に嫌気が差す、負のスパイラルだ。

鬱病は治らない。

現在ではそれなりにやっているが、鬱特有の「だるさ」や「動けなさ」は頻繁にやってくる。

「鬱病の見ている世界の方が実は正しい」という研究結果を聞いたことはないだろうか。(有名なのでググれば出てくるはず)

つまり、「鬱病というデバフにかかる」のではなく、「生まれつき備わっていた世界がキラキラして見えるバフが解けてしまった」という事なのだ。

この説を聞いたとき、とてもしっくり来た。

キラキラ状態が解けてしまったからには、それを取り戻そうとするのではなく、鬱であることを受け入れて、新たな生き方を模索するしかない。

以下では「自分なりの鬱の改善法と付き合い方」を述べていこうと思う。

だが、全てを鵜呑みにする必要は無いし、合わないなと思ったら実行しなくてもいい。

使えるところだけ使ってもらえれば大丈夫だ。

(むしろ、ひとりの意見を過信するのは危険である)

まず、重度のうつ状態から抜け出すには「充分な休息」と「きっかけ」が必要だ。

抗うつ剤を飲むのもひとつの手であるが、個人的には不安定になってしまう感覚があまり好きになれなかった。

(もちろん、今にも死んでしまいそうな人は処方してもらうべきだと思う)

とりあえず、可能な限り、ひたすら寝る。寝るのに飽きるまで寝る。月単位や年単位で寝てていい。

罪悪感は感じない事。寝るのが最短ルートなのだから、全力で休むべきだ。

無理に「◯◯しなきゃ」ではなく、「ちょっと◯◯してみようかな」と思えるぐらいにメンタルが復活するのが望ましい。

(「仕事」などではなく、「散歩」程度で構わない)

2つ目の「きっかけ」というのは「楽しさを見出す作業」だ。

「人生って意外と悪くないな」、そんなきっかけが必要となる。

オススメしたいのは「スーパー銭湯療法」だ。

まず、自宅から徒歩で行ける距離のスーパー銭湯を探そう。ある程度、元気が回復しているのなら、1時間ぐらいがいい。

天気のいい昼間にのんびり歩く。これだけでなんだか気持ちいいものだ。

後半は脚がしんどいかもしれないが、運動不足のニートにはちょうどいい。そのツラさも生きている証拠だ。

そして、スーパー銭湯に到着したら汗を流そう。

風呂に浸かれば、心身共にもほぐされる。

さらに、絶対に試して欲しいのが「サウナ」だ。

「サウナ→水風呂→外気浴」を3セット。

サウナによるディープリラックスはメンタルケア効果がすごい。

自分はサウナが無かったら首を吊って死んでいたかもしれない。それほどである。

(詳しい入浴法はここでは割愛するが、『サ道』という漫画の第1巻を読めば、だいたい理解することができる)

風呂を出たら食堂でご飯を食べよう。塩分が抜けた身体に濃いめの味付けが染みて、いつもの1.5倍おいしい。

腹を満たした後は、そのまま仮眠室で昼寝する。

目覚めたのなら、もうひとっ風呂を浴びて夜風に包まれながら帰宅しよう。

ここまですれば、ちょっとした充実は感じられるはずだ。

「スーパー銭湯療法」は継続して行いたい。

月に2,3回が望ましい。お金に余裕があるのならば、週1ぐらいでもいいだろう。

重度の鬱、「世界が絶望に包まれていて希死念慮が離れず身体が動かない」を抜け出そう。

そして、軽度の鬱、「常に心身がだるく、慢性的にやる気が出ない」ぐらいまで持っていきたい。

(ちなみに、自分も未だに軽度の状態が続いている)

軽度まで回復してきたら行いたいのが、「筋トレ」と「読書」である。

「鬱には筋トレ」は最近叩かれがちだ。

「筋トレで鬱が治るのだったら精神科にジムが併設されている」というツイートがバズっていた気がする。

しかし、それは「重度の鬱」に筋トレと言っているのが、間違いなのであって、「軽度の鬱」にはとても効果的であると感じる。

筋トレの効果はザッとこんな感じだ。

① 筋トレというマインドフルネス(目の前のウェイトに必死で死にたいとか考えている暇がない)

② 継続による肉体の変化と達成感で自信が付く

③ 脳内ホルモン分泌によるメンタル改善

昔は自分も「ヒョロくて腹だけ出ている」という情けない体型だったのだが、今ではそこそこ健康的な身体付きになった。

「ニートは1日1ターン論」により、最初は筋トレだけで1日を終えてしまうというデメリットも存在するが、当たり前の行動として習慣化できると望ましい。

スキマ時間にサクッと筋トレをすることによって、日常を回しやすくするようなイメージだ。

トイレぐらいの感覚(間隔)で「限界まで腕立て伏せ」「限界までスクワット」をしていきたい。

もちろん、スポーツジムを契約してゴリゴリに鍛えるのもいいだろう。

次に「読書」である。

自分が思うに、鬱病とは「このままの生き方をしていたら、あなたは壊れてしまいますよ」という身体からのサインでもあるのではないだろうか。

脳が「休め!」と強制シャットダウンをかけているのだ。

もし回復したとしても、「同じような生き方」をしていたら、いつかは再発してしまう。

本質的な改善方法としては、本を読み、様々な価値観を取り入れ、いろんな生き方があることを学ぶ必要があるはずだ。

ここで難しいのは「鬱であるとまともに文章が読めない」ということである。

鬱の詰みポイントのひとつだろう。

まずは、ツイッターやブログでもいいから「文章を読む面白さ」「知る面白さ」「考える面白さ」を思い出してみよう。

人生哲学が詰まっているような漫画でもいいかもしれない。

「面白い」と感じた所からどんどん読書の幅を広げていくべきだ。

ニート関連であると、やはりphaさんのエッセイはいい。

文章も簡潔で、ドライな価値観に非常に共感できる。オススメだ。

ここで注意したいのは「怪しい人物」にのめり込まないことである。

「好きなことで生きていこう!」みたいな話は聞こえがいいかもしれないが、その人物があなたの人生の責任を取ってくれる訳ではない。

自分探し中の鬱病なんて絶好のカモだ。

このブログだって調子のいいことを言っているだけかもしれない。

分け隔てなく思想や価値観を吸収した上で、自分で人生を決定すること。

それが大切なのだと思う。

(読書自体とあまり関係ない結論になってしまった)

鬱の改善法としてはこんなところだろうか。

「スーパー銭湯」「筋トレ」「読書」

つまり、隠居老人のような生活をしていると、非常にメンタルに良い。

最後に自分の「鬱との付き合い方 実践例」を紹介して、ひとまず終わりにしようと思う。

鬱とやっていくには「鬱を乗りこなす」ぐらいの気持ちが必要だ。

「だるい… 何もする気が起きない…」

そんな時、多くの人は「何かしなきゃ」「なんて自分はダメ人間なんだろう」など思ってしまうかもしれないが、それは「だるさ」に飲まれてしまっている。

「おっ、いいだるさが来たねえ~、思う存分ゴロゴロしますか!」で構わない。

鬱には「だるサーフィン技術」が必要なのだ。

(ゴロゴロの極意については↓の記事を参考にしてほしい)

焦燥感に駆られるニートの為の安眠マニュアル

「鬱には逆らわない」「むしろ、『鬱を楽しむ』」

これもひとつのテクニックである。

そして、鬱になると行動力が非常に落ちる。基本的に何もしたくない。

だけれど、「好きなもの」ぐらいは普通に食べられるだろう。

鬱になったのなら、「やりたいこと」を主体に人生を組んでいくしかない。

「自己啓発的なアレ」とか「ワガママ」ではない。

もはや、「やりたくないこと」を目的に行動するのは不可能に近いからだ。

生きるために「やりたいこと」をやるしかない。

いや、むしろ、本来は「やりたいことをやる」のが「生きること」であるはずだ。

(「やりたくないこと」を続けたから鬱になったとも言える)

働きたくないのなら、働かない方がいい。

「やりたくないこと」のために「なりたくない人間になる」ような就活は鬱との相性が最悪だ。

再び鬱に戻るオチが見えている。

「だるくて何もしたくない」のだったら、その欲求を満たし続ければいい。

自分はそうしているが、流石にそれでは生活できないので、必要最低限のバイトもしている訳である。

バイトはやりたいことではないが、やりたいことの為に必要な行為だ。

「『好きなもの』を食べたのなら、皿洗いが必要」であるように、「副次的に生まれてしまう多少のやりたくないこと」は仕方がない。

「何もしない為に生きている」というのは我ながら笑ってしまうけれど、意外と心身は充実している。

心身が充実すると、更にやりたいことが増えていく。

こんなふざけたブログを書くのもなかなか楽しいものだ。

このように「やりたいこと」に従っていると、どんどん「他のやりたいこと」も増えていく。

鬱になってしまったからには「鬱と付き合っていくライフスタイル」を楽しむしかない。

「鬱が良い」という事ではないけれど、少なくとも「なんのために生きているのか分からなかった時期」よりはなんだか「生きている」ような気がする。

タイトルとURLをコピーしました