人生ゲームで遊んだことはあるだろうか。
ルーレットを回して、就職したり、結婚したり、子供を作ったり、家を買ったり、…と、最終的に「お金を1番多くゲットした人が勝ち」というすごろくゲームである。
これらはまさしく近代社会の価値観をゲーム化したものであり、生涯年収によって人生の価値が決まると考えているような人も少なくないように思う。
つまり、逆から考えてみれば、我々は生まれた瞬間から社会によって「人生ゲーム」のテーブルに座らせられているのであり、その枠組みの中で、ルールに従って生きることを強いられているのである。
ここで残酷に思うのは、現実の人生ゲームはスタートが全然フェアでないことだ。
極論、人生なんていうものは「遺伝」と「環境」によって決まってしまうと言ってもいい。
「努力によって人はのし上がれる!」という意見も間違ってはいないが、「努力できるかどうかさえも、遺伝と環境に決定されてしまっている」ように思えてしまう。
努力を放棄してしまうことが正しいとも思えないが、どうあがいても変えられない運命のようなものは存在する。
例えば、発展途上国の人々が貧しいのはそこに生まれた人々が悪いのだろうか。野良猫がペットショップの猫より長生きできず、車に轢かれたり病気で死んでしまうのは野良猫が悪いのだろうか。
今の日本では「弱者は自己責任」という風潮が強いが、可視化されづらく、スケールが異なるだけであり、同じことが起こっているだけなのだ。
そして、”ハンデ”を背負って人生ゲームをプレイさせられるものは、よほどルーレット(運)に恵まれてもいない限り、蔑まれ、搾取され、敗北に向かっていくことになるだろう。
そんな理不尽なゲームをやらされても楽しいはずがない。
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このようにリアル人生ゲームにおいて、規律や劣等感に苦しむ人々は多く存在する。中には、それらを理由に自ら命を経ってしまう人もいるだろう。
しかし、ここで「リアルにしろ、おもちゃにしろ、ゲームはただのゲームである」と提唱してみたい。
おもちゃの人生ゲームで負けそうになったからといって、その場で本当に死んでしまうような人がいたら、ちゃんちゃらおかしいと思うはずだ。
そのゲームに意義を感じられないのであったら、ゲームを抜けるか、ゴールまで適当に付き合えばいいのである。
「お金をたくさん稼いでいる人が勝ち」
「ちゃんと就職して家族を築いている人が勝ち」
という価値観は「与えられた価値観(ただのゲームのルール)」に過ぎない。
苦しんで死んでしまいそうなのならば、ゲームを抜ける、すなわち社会競争を降りて、世捨て人的に生きるという方法も存在するのだ。
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とはいえ、人生ゲームを抜けることが「楽な選択」かと言えば、全くそうは思わない。
人生ゲームの外に広がっているものは何か?
それは無限に広がる虚無である。
突き詰めて考えてしまえば、人生に意味などない。
子孫や功績を残しても、いつか人類も地球も宇宙も滅びる。
我々の意識はただの脳の電気信号であり、どれだけ複雑な振る舞いをするかという違いでしかなく、その辺の石ころと人間の存在価値は等しい。
こんな無意味で虚しい行いをやってられないからこそ、人は幸福や社会的な価値観を追い求めることに熱中しているのである。
社会の価値観に沿って生きるのも苦しいが、そこから逃れるとニヒリズム(虚無主義)に囚われてしまうという訳だ。
厭世主義の哲学者、ショーペンハウアーはこのように述べている。
『この世は困苦と悲痛にあふれ、困苦と悲痛を逃れた者には退屈が待ち受けている』
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では、我々はどうすればいいのだろうか。
自分が考えているのは「別のボードゲーム」を始めることである。
「人生ゲームなんかやってられなくね?」という人々を集めて、新たにゲームを始めれば良いのだ。
この飽和を迎えた資本主義社会において、オルタナティブな生き方やコミュニティが誕生してもよい。
具体的な例では山奥ニートが挙げられるだろう。
都会を離れた共同生活によって、生活コストを下げ、バイトや配当金で暮らしていく。
完全な自給自足は難しいかもしれないが、養鶏や農作業にチャレンジしてみるのもよさそうだ。
つまり、なぜ我々が社会に振り回されるかというと、社会に依存しているからなのである。
自分たちだけで暮らしていけるのならば、社会不適合者と言われようとも何の問題もない。
完全に世を捨てて仙人のような生活をするのは難しいけれども、技術や医療など現代社会の恩恵を享受した上で、基本的な生活は自分たちでやっていくというハイブリッド生活ならば可能性はあるように思う。
「生まれてしまった」ということからは逃れられないが、遊ぶゲームを変えることはできる。
人生は死ぬまでの暇つぶしというが、どうせならマシなゲームをしながら過ごしたいものだ。