「何かを背負ってこそ一人前」
そんな価値観にはうんざりである。
我々は幼い頃から「背負う」ことを奨められてきた。
「よい大学を出てこそ一人前」
「正社員で働いてこそ一人前」
「家族を作ってこそ一人前」
「そんな我慢比べゲームやってらんねぇ」とぶん投げてしまいたくなる気持ちにもなる。
ただ、そうすると今度は「背負っている人々」から
「あそこにサボっているヤツがいるぞォー‼︎」
と非難を受ける事になる。
とってもめんどくさい世の中だ。
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ここで考えてみたいのは「”本質”としては何を背負っているのだろう?」という事である。
答えを言ってしまえば、「”社会”という名の巨大なプレート」を労働者全員で支えているのだ。
1人1人が別なものを背負っているようにも見えるが、マクロな視点から見れば、支えているものは「社会」なのである。
そう言われると「背負わない人々」に対する非難も分からなくはない。
「全員で重い荷物を持ちましょう」という時にサボっているヤツがいたら、イラッとしてしまうのは当たり前だろう。
それならば、「わざわざ苦労するのをやめて、全員で一斉に重いプレートを支えるのをやめねえか?」と提唱したくもなるが、それは非常に危険だ。
仮に全員で巨大プレートを持つことをボイコットする。すなわち、「社会の放棄」をしたとしよう。
その後に待ち受けているのは、枷や負荷から解放されてしまったホモ・サピエンスたちの姿だ。
すぐに「暴力が全ての世紀末」が始まるであろう。
我々は「社会」を維持する事によって「人間」でいられているのだ。
皮肉な事に、近代の人々は「社会を維持するために生きている」といっても過言ではない。
(だが、プレートの上に鎮座している資本家や、まともに働かず生意気な文章を書いてるニートを「無秩序な場」に引き摺り込みたいという気持ちは分からなくもない)
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現代は確かにめんどくさい。だけれど、歴史的に見れば「21世紀の日本」に生まれたことは非常に恵まれていると思う。
本当に何のために生まれてきたのか分からなかったような人々、人間の価値が非常に低かったような時代の生活を想像すると胸が苦しくなる。
それに「自由」を基本とした資本主義はそこまで悪くない。(我々が「自由か?」ということはさておき…)
「平等」を掲げた共産主義の実態は上層部による独裁である。それに自分のような「働かない人」は直ぐに粛正であろう。
「自由」であるが故に、ニートで在れたり、ゴロゴロしながらインターネットを眺めることが可能なのだ。
とはいえ、「現代社会と人々の在り方」が「このままで正しいのか?」と問われると、そうは思わない。
自分のようなタイプの人間が「社会」によって思い詰めてしまうような事を無くす為にも、個人的に思い至った落とし所を紹介していきたい。
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まず、考えるのは冒頭でも述べた通り、「そんな社会なんてプレートを持つのをやめて自分だけサボっちゃえばいいじゃん!」ということである。
もちろん、死ぬぐらいだったらサボった方がいいし、自分1人が抜けても頭上のプレートは回っていく。
ただ、「自分1人が良ければそれでいいのか?」と考えるとそうは思わない。
岡本太郎氏の言葉にこのようなものがある。
たとえ、自分がうまくいって幸福だとおもっていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には、辛いことばかりじゃないか。
人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはあり得ない。
その通りだ。「自分だけ良ければいい」なんて考えはなんだか間違っている。
「ニート最高!」は分かるけれど、サボりながら「働いてるヤツはアホ!」とまで言う人とは仲良くなれない。
「もっとみんなで手を抜こうぜ!(ニート的な生き方をしようぜ)」と声を挙げていきたいものである。
それに、「人との繋がり」という面も含め、先程述べた通り、「社会という巨大プレートを支えること」にはどちらかと言うと賛成派だ。
だけれど、資本家たちの終わりなきクッキークリッカーに付き合わされるのはごめんだし、人にはそれぞれのキャパシティがある。
つまりは、「持ちたい分(持てる分)だけ持てばいいんじゃないの」というのが自分の意見だ。
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一旦、全ての常識を捨ててみるのがいい。
「いい大学に入るべき」「正社員で働くべき」「家庭を持つべき」
この世のあらゆる「〜するべき」というのは誰かの主観に過ぎない。
どんな「AはBである」を組み合わせても、「AはBするべき」という構文を導き出すことはできないのだ。(嘘だと思うならやってみよう)
その上で改めて「自分なりの価値観」を再構築してみる。
自分は労働が主体の人生なんて嫌だ。
しかし、「生きる為に動く(働く)こと」は必要なのだろうなとは思う。
自然や動物を観察してみれば、もちろんそうであるし、狩猟採取生活の時代だって、生きる為には行動をしなくてはいけなかった。生き物としてのルールである。
そして、ある程度の社会とのつながりを考えてみる。
それならば、最低限の労働をして、あとはのんびり暮らせばよい。という結論に自分はひとまず落ち着いた。(「メキシコ漁師のコピペ」のような生活)
資本主義の欲望を掻き立てるシステムや見栄張りマウント合戦から降りてマイペースに暮らす。悪くない選択だろう。
経済活動(社会を支える事)には参加している訳だし、無理なく自分が持てる分と言ったらこのぐらいだ。
常々、申し上げているのだが、「フリーター」と「正社員」の壁が大きすぎるのがよろしくない。
「週2〜4労働でボーナスあり」ぐらいの働き方が存在していたのなら、救われた人は多かったはずだ。
(まあ、搾取する側としては週5の8時間、身を粉にして働いてもらいたいのだから、そのような働き方が存在しないのは当然かもしれない。それが「当たり前」だと非常に都合がいい。)
もっと人々が「持ちたい分だけ持つ」という選択ができるような社会になってほしいものである。
いや、我々は進んでそのような選択をどんどんしていくべきなのだ。黙っていると勝手に背負うべきものを決められてしまうのだから。
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最後に良さげなことを言ってまとめよう。
「背負わされること」については否定を続けてきたけれど、自ら望み、納得をした上で「背負うのを選択すること」とは話がまた別だ。
自主的に「よい大学に行きたい!」「正社員になりたい!(というよりは、やりたい仕事が正社員だった)」「家庭を持ちたい!」と志すのは素晴らしいことだろう。
結局は「主体的に生きる」ということが非常に大切なのだと思う。
「近代の人々は『社会』を維持する為に生きている」と述べたが、「社会に生かされる」のではなく、「自分で選択して生きること」をもっと人間は強く意識するべきなのだ。
もし、全員が主体的な人生を送れたのならば、世の中はすばらしく風通しの良いものになるだろう。
他人に「あいつは背負ってない!」と言うような人は「自分が社会に生かされている」が故に文句を言うのである。
本当に「自分の人生」を生きている人ならば、他人の生き方にアレコレ言う必要(もしくはそんな暇)は無いはずだ。
ぶっちゃけ、こんな記事を書いたところで社会が改善される訳ではないし、ある程度「背負うこと」からは逃れられないのかもしれない。
ただ、定められた環境や時代、大袈裟に言えば「現代に生まれたという運命」の中であっても、自分がどのような「姿勢」を取ることかによって、「人生」というものは大きく変化していくのではないだろうか。
我々は「自由主義」の中に生きているのだ。
もっと堂々と「自由」に「選択」をしていこう。
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(大層な事を書いたが、結局はあんまり働きたくないだけである [おわり] )