「運命の奴隷」とは「肉体の奴隷」と「環境の奴隷」である

『ジョジョの奇妙な冒険』という漫画を読んだ事があるだろうか。

「人間賛歌」を主題としており、唯一無二の作風や、緻密な頭脳戦バトルは後々の作品に大きな影響を与えた。

最近はアニメ化をしている事からも知名度は上がったはずだ。

ジョジョは「第○部」とストーリーがそれぞれ独立しており、現在は「第8部」が連載中である。

同じ作品であっても、話が区切られていると、「どの部が一番面白いか?」という議論が出てくる。

最も代表的なのは「第3部」かもしれない。「オラオラ!」「無駄無駄!」と殴り合うシーンはあまりにも有名だ。

しかし、個人的に一番心に刻まれたのは「第5部」である。

「エンターテインメント」としてのジョジョは「第2部~第4部」が人気的にもピークだったかもしれないが、「考えさせられる」という意味では「第5部以降」を薦めたい。

(ただ、少年漫画的な分かりやすさは減少していったので、当時の週刊少年ジャンプでは「第6部」にもなると常に最後の方に載っていたらしい)

「第5部」のあらすじは「自身のギャング組織の在り方に疑問を抱いている主人公たちが成り上がりを目指す」というものだ。

そして、物語が進むにつれて、主人公たちには「ギャングをせざるを得ない」ような悲惨なバックボーンが存在する事が明らかになっていく。

ここで作者の後書きを紹介したい。

この第5部「黄金の風」を描く時にぼくは考えました。

では、「生まれて来た事自体が悲しい」場合、その人物はどうすればいいのだろうか?

人は生まれる場所を選べません。幸せな家庭に生まれる人もいるし、最初からヒドイ境遇に生まれる人もいます。

で、もし「運命」とか「宿命」とかが、神様だとか、この大宇宙の星々が運行するように、法則だとかですでに決定されているものだとしたら、その人物はいったいどうすればいいのだろうか?

そのテーマがこの第5部「黄金の風」の設定であり、登場する主人公や敵たちです。

(中略)

彼らは「運命」「宿命」に立ち向かい、それを変えていく事なんてできるのだろうか?

そのことをずっと考えながらこの第5部を描きました。

執筆した時期とか状況もあってとても苦しく暗い気分になりました。

どうしよう?「運命」とか「宿命」とかが、そんなに簡単に人間の努力とか根性とかで変えられたら、そんなの最初から「運命」なんて言わないと思うし、軽々しすぎる。そう思いました。

つまりは、「定められた運命の中でどう生きるか?」

そのようなテーマが第5部以降のジョジョには存在するのだ。

エピローグには「運命の奴隷」という概念も登場する。

そのことについて、現実に生きる我々にも当てはめて考えてみようと思う。

ところで、あなたは「運命」を信じるだろうか。

(急にスピリチュアルなブログになってしまった)

自分は意外と運命論には肯定的である。

よく例えられるのは「この世は巨大なビリヤード台」という表現だ。

「ビッグバンから始まって、無数のボールが決められた動き(≒運命)をするに過ぎない」という考えである。

似たようなものとしては、「『自分』という意識は『肉体(DNA)』と『環境』という条件によって作り上げられただけ」が挙げられる。

例えば、環境(時代・社会・家庭など)が同じだったとしても、肉体の情報が違ったのならば、「今の自分」とは違う自我が生まれていただろう。

分かりやすく言うのなら、「自分の性別が逆だったら?」と考えてみてもいい。

環境との相互作用(周囲のリアクションの違い)も含めて、全く同じ自我や性格を持つという事は有り得ないはずだ。

逆に自分の肉体情報が同じだったとしても、違う環境に生まれていれば、思想や行動は変わっていただろう。

自分が呑気に日本語で文章を書いているのも「21世紀の日本」に生まれた故なのである。

つまり、「自我」や「精神」といったものは「肉体」や「環境」といった条件に後付けされて「発生したに過ぎない」というのが自身の考えだ。

まあ、これはあくまで自分なりの解釈なので他にも色々な考え方があるかもしれない。

とりあえずはこの前提で進めていこう。

そうすると「運命の奴隷」とは「肉体の奴隷」と「環境の奴隷」に分別することができる。

まず、「肉体の奴隷」とは、「生まれてしまったということ」。

そして、「DNA(本能)には逆らえない」である。

「生きることの本質は『苦』である」とブッダさんは言っている。

(正確には「世の中、思い通りにならんよね」的なニュアンスだが)

自分も「生まれてこない方がよかった」と思う訳ではないが、内容としては理解できる。

もちろん、人生は楽しい事もたくさんあるだろう。

ただ、それは「基本的に存在する『苦』を『一時的な快楽』で塗りつぶしている自転車操業(その場しのぎを繰り返しているだけ)のようなもの」ではないだろうか。

人は何もしなければ飢えて死ぬ。

幸いにも、自分には「飢え死に」というのが想像できないが、とても苦しいのだろう。

そう、基本的に何もしなければ、人間とは苦しんで死に向かっていくのである。

誰だって、生まれたからには死にたくない。

この世のあらゆる生き物たちは「生きるための行動」を余儀なくされているのだ。

そして、頑張ったとしても最終的に老病死を迎えることは免れない。

「生まれてしまった」というのは、とてもめんどくさい事だと思う。

次に、「DNAには逆らえない」。

人種、性別、才能、容姿など自分の意志ではどうにもならない事がたくさんある。

さらに生物である我々には「産めよ増やせよ」という本能が働く。

現代社会ではある程度、自分の意志で行動を選択できる(っぽい)といえ、人類は増えるに有利な事が心地良いようにデザインされてしまっている。(というかそのような傾向を持つ個体が繁殖を続けてきたのだろう)

「好きな人といると安心する」「セックスの快楽」のような事はもちろんだし、食事をする(生命を維持する)や社会的地位を得る(偉い個体はモテる)など、脳が気持ちよくなる事(≒生殖的に有利な事)に従って行動せざるを得ない部分がある。

先ほど述べた通り、生まれたからには「苦」を塗りつぶすような、「幸せ」を得たいものである。

だが、その幸福でさえ、「これが幸福(気持ちよい事・脳汁が出る事)である」と肉体に決定されてしまっているのだ。

これを「肉体の奴隷」と言わずして何というのだろうか。

そして、「環境の奴隷」である。

これは「時代」「社会」「家庭」などによって自身の行動や思想が決定されてしまう、という事だ。

前回の記事でも全く同じ事を書いたが、考えてみれば、そうではないだろうか。

この現代に生まれた自分は社会と戦うニート(?)をしているが、古代に生まれていれば巨大マンモスと戦っていたかもしれないし、未来に生まれていればマザーコンピューターと戦っていたかもしれない。

こんな表現をすると笑いごとのようだが、人ひとりで社会のうねりに決して逆らう事はできないというのはとても恐ろしい。

戦争、奴隷制度、疫病など、「時代の価値観やシステム」によって死んでしまった人は大勢いる。

これは他人事などではなく、現代でも「無職による自信喪失」「ブラック企業による過労」、そんな理由で死んでしまった人は少なくないはずだ。

残酷であるが、「時代」「社会」「家庭」などによって「その人がどう行動するのか?」という事は決定しているのだろう。

まさしく、ビリヤード台でのボールの挙動は「自分のボールの性質(サイズや重さ) ≒ 肉体」と「周囲のボールの動き ≒ 環境」によって決まってしまうということだ。

あなたがこの記事を読んでいるのも、「現代が資本主義社会 → その労働システムに疑問を抱いている → なんだかシンパシーを感じた自分(ゆるふわ)のアカウントをフォローしてくれた」からなのである。(たぶん)

ただ、このようにインターネットが存在する環境に生まれた我々はとても恵まれている方だろう。

なるべく可能な限り平等に、学ぶ事や知る事についての機会は存在しているはずだ。

可能性は広く、離れていても価値観を共有できることは素晴らしい。

(「インターネットをどう扱うか?」という事は別の要因で既に決まっているのかもしれないし、ネットの価値観に影響されるというネガティブな側面も存在するけれど)

(余談)

「環境の奴隷」という概念を考えると、「自分を変えるには環境を変えるしかない」という自己啓発はなかなか理にかなっているな、と思う。

「自分」とは「肉体(DNA)」と「環境」であるので、「DNA改造手術」が存在しない現代では、自分を変えるにはまさしく「環境」を変えるしかないのだ。

ただ、自分が言いたいのは「この環境を抜け出して新天地に向かおう!」という思想さえ、「その環境に因るもの」だという事である。

閑話休題

さて、「運命の奴隷」、ひいては「肉体の奴隷」と「環境の奴隷」である我々はどうしたらいいのだろうか?

問題提起となった『ジョジョ第5部』的な回答としては「覚悟を決めて生きること」である。

「過酷な運命」や「抜き差しならない状況」が待ち受けていたとしても、「死の恐怖」や「損得勘定」を越えた先に存在する、「正しさ」や「信じられる道」を歩む姿勢が大切なのだ。

信念の為に命を懸けるような不合理な行動をする、そんな事を行うのは生き物の中でも人間だけだろう。

もし、命を落とす事になってしまったとしても、その「意思」や「行動」は「あとの者たち」に受け継がれる。

そのような人々の生き様を描くことがジョジョのテーマである「人間賛歌」にも繋がっているのだ。

…。

とはいえ、我々は漫画の登場人物ではない。(言っている内容はめちゃカッコいいと思うが)

もう少し、現実に落とし込むとするのなら、「主体的に生きる」という事ではないだろうか。

こんな社会で、なんとなく生きていたら、当たり前だが死にたくなる。

生物として人間を考えるなら、三大欲求を満たしていればいいのかもしれないし、社会では長いものに巻かれて無難に生きるべきなのかもしれない。

だったら、ジャンクフードを食って、インターネットポルノを鑑賞して、死んだ目をして働くような生活を過ごせばいいのだろうか。

それではまさしく「本能と社会に生かされているだけ」である。

可能な限り「自分の意志」で行動すること。それが精神の充実に繋がるのではないだろうか。

(たとえ、それが「してる風」や「既に決まっている事」だとしても)

要するに「マインドフルネス(今、この瞬間を大切に生きる)」に近いのかもしれない。

別にジャンクフードやポルノ、労働勤務を全て否定している訳ではないのだ。

「なんとなく生きるのはやめよう」、そう主張したいのである。

全身全霊でハンバーガーを喰らえ。

そして、生まれてしまったからには人生をなるべくエンジョイしてしまおう。

生まれる事は「苦」なのかもしれないけど、「生きてて良かった」と思える瞬間を肯定していくしかない。

「停止不能のジェットコースターに乗ってしまったからには楽しんだ方がいい」

そんな所だろうか。

最後に個人としてオススメなのは「無意味」をする事である。

肉体的にも社会的にも別にメリットが無いような、自分がやりたいからやるだけの行為するのだ。

この文章を書いているのだってそうだろう。

殆ど意味はないけど、自分が書きたいから書いているだけである。

ただ、そうしている間はしがらみに囚われず、自由に生きているという感覚がする。

最近では「無意味を大切にすること」に現代を生きるヒントがある気がしてならない。

肉体や社会に依存しない、自分なりの正しさから行われる行動。

そういったものだけが、我々を「奴隷」から解放してくれるのではないだろうか。

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