家族や子供を持ちたくないな、ということを考えていた。
人に押し付けるつもりはないけど、自分はそうするだろう。(「◯◯が正しい」みたいな話ではない)
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まず、家族について言えば、「自分の家庭があまり良いものではなかった」ということに尽きるかもしれない。
シンプルに考えて、”良く思わないもの”を再生産しようと思う人は少ないのではないだろうか。
うちの母親は客観的に見ても、少しおかしかったと思う。
ヒステリックで、精神的に幼かったというか。
いろんな嫌な思い出があるけれど、大雑把に言うなら、教育方針と家庭での在り方だろうか。
まず、教育については「男なら、良い大学に入って、良い企業に入って、良いお嫁さんを見つけなさい」という昭和的な価値観を押し付けられたように思う。
いわゆる、教育ママのような気があった。
悲惨なのは、本人が「教育について何も分かっていなかったこと」かもしれない。
学歴差別などをするつもりはないが、事実として言わせてもらうと、母親は高卒だった。
だからこそ、そのような思い込みやコンプレックスの裏返しがあったのだろう。
「良い大学に行けば、良い人生を送れる」と盲信していたように思う。
多感な時期の子供にそうさせるのは非常に難しいことを承知の上で言うと、「勉強は主体的に行われるべきもの」であるはずだ。
無理矢理にさせたとしても、最終的には空っぽな人間が生まれるだけである。
「将来的に自分がどうしたいのか?という主体性を与える(→結果として勉強の必要)」
「学ぶことや考えることの楽しさを気づかせる」
「高い金を払って塾など通わせなくても、分からない科目は自ら教える」
良き親ならば、そんなことも可能だったのではないかと思うが、うちの母親は「何も分かっていない教育ママ」だったので、怒鳴ったりすることしか出来なかったのだと思う。
おかげでだいぶくたびれてしまった。
「あんたが女だったら好きなように生きてもいいんだけど、男なら稼げるようにならないとダメねえ」
なんて言われたことは一生忘れないだろう。
(ジェンダー論について喚きあっている人々がキラいだ。男も女も。自分はそういう枠組みを放棄してさっさと勝手に生きようと思う。)
家庭に関してもなかなかひどかった。
パートなどしていなかったにも関わらず、家事をあまりやらないし、家は基本的にぐちゃぐちゃ。(使われてない部分は本当にゴミ屋敷だった)
そのくせ、世間体だけは気にするのでタチが悪い。こんなブログを読ませたら発狂してしまうかもしれない。
特にキツかったのは当時子供だった自分に対して父親の悪口をひたすらに言うことだった。
「父さんみたいになっちゃダメよ」
「◯◯さんのところの夫に比べて、うちの夫は…」
「そのうち父さんと離婚しようと思ってるの」
そんな愚痴をひたすらに聞かされるのだ。
特定の属性を揶揄するようなインターネットのノリは正直あまり好きではないのだが、ツイッターで
「理解のある彼くんを捕まえたメンヘラ女性は、その後、子供にも理解を求めることを強制する、ご存じ『毒親』になる」
というツイートを見て、とても腑に落ちてしまった。
その息子である自分もまさしく、インターネットのみんなに理解を求めてしまうような、負の連鎖が行われているのかもしれない。
母親に対する苦情はこの辺にしておこうと思う。
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父親に対してはどう言えばいいのかいまいち分からない。
大きくなるまで食わせてもらったことは本当に感謝しているのだが、親子としては「褒められた記憶も、怒られた記憶もない」。
コミュニケーションがほとんど無かったように思う。
有名な話で「過干渉な母親と無関心な父親の子供はニートになる」というものがある。
そういった意味では、自分は王道パターンを辿ってきた人間なのかもしれない。
別に今の境遇を親のせいにしたい訳ではないが(むしろ、自分の人生については納得さえしている)、過干渉母親と無関心父親の子供がニートになりやすいのは、「問題的な母親の影響のみを受けるから」だけでなく、父親から受け継ぐべき、ある種の「男らしさ」が不足するから、という側面もあるのではないだろうか。さらに言えば、父親が母親の暴走を咎めないことも問題である。
(「男らしさ」が良いものなのか?ということはさておき。だが、多くの「普通に社会をやっている人」は持ち合わせているものなのだろう)
家庭の問題は難しい。
ここまで批判的な振り返りを続けてきたが、もちろん感謝している部分や優しくしてもらった記憶もある。
簡単に割り切れないからこそ、苦悩するのだ。
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本題の「家族と子供を持ちたくない」に戻ろう。
もう一方、子供を持たない理由は、ざっくり言ってしまえば、「人生の責任を負えない」ということだろうか。
自分自身、「生まれてよかったなー」なんて思う時もあるけれど、それは一時的なものにすぎない。
生きることは非常にめんどくさいと思う。
絶対的な苦を一時的な快楽で塗り潰し、ごまかし、ごまかし、生きているだけだ。(極端な例で言えば、我々は何も食べなければ、飢えて苦しんで死ぬ訳である。)
そして、最終的に老いて、病気になって、苦しんで死ぬことは免れない。
「それが当たり前だから」、なんて理由で子供を作ってしまうのは恐ろしいことでもある。「それでも産むべきか?」ということは必ず一考するべきだ。
別に、自分は反出生主義ではないし、ルサンチマンとして発言している訳ではない。
子供と共に育つ喜びはもちろん存在するはずだし、生物として考えればそれが自然なことなのだろう。
親子が公園で遊んでいるのを見かけたりすると、ほほえましいなと思う。
だけれど、フラットな目線から見れば、出産はギャンブルであり、自己満足でエゴそのものとも言える行為なのだ。(虫や魚がたくさん卵を産むのは、子孫を残す”確率”を上げるため)
まともに働きたくないと言っている男(自分)の子供が幸せになれる確率はどれくらいなものだろうか。
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「産んでしまえばどうにかなる」、という言説がある。
確かに、これはその通りなのだろう。
現代で生まれた子供は大体どうにかなるだろうし、自分だって子供の為に必死に働き出すかもしれない。
ただ、その「どうにかなる」ように、家族や子供に掛かるちぐはぐな負荷が、それぞれの人生を良くも悪くも”いびつなもの”にするのだろうな、と思う。
自分はおそらく、”いびつな家庭”の被害者なのだ。
母親と父親はお見合い婚であったという。
「結婚するのが当たり前だから」「世間体のため」
非難するつもりではないが、そんな動機があったはずだ。
表面上は気が合ったのかもしれないが、その行く末は先程に述べた通りである。
母親はヒステリックを爆発させ、父親は家庭に無関心の働くロボット。
母親に、「あんた(自分)がいなかったらすぐに離婚するんだけどねえ」、なんて言われたことがある。
これはまさしく、ちぐはぐな負荷によって成立していた”いびつな家庭”であったことの証明に他ならないだろう。
確かに、子供なんて「産んでしまえばどうにかなる」のだ。
ただ、その「どうにかなる」ために掛かる負荷が、各々の人生に歪みをもたらす可能性を秘めていることも忘れてはならない。
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その他で言えば、自身のDNAを残すことに特に執着がないということだろうか。
生(性)がなんだか素晴らしくて神聖なもので思える理由は、自分たちが「DNAの乗り物」で、そういう脳の造りになっているのがDNAにとって都合のいい、というだけの話である。「利己的な遺伝子」というヤツだ。
人間として生まれてしまった時点で、「これが気持ちいい」とか「これが不愉快だ」ということが、既に決定されてしまっているのは本当にくだらないことだと思う。
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当たり前の話かもしれないが、書いていて思ったのは、自分が嫌悪するものには相応のバックボーンがあるのだな、ということだ。
「世間体の為に生きること」
「ジェンダー論の押し付け合い」
「自ら結婚を選んだにも関わらず、愚痴を言っているようなアカウント」
そんなものたちが自分は無性に苦手だ。
これらは間違いなく母親に対する反発から生まれた性質である。
けれども、振り返れば「親も被害者の一員にすぎない」ようにも思う。
親だって、さらにその親(自分から見た祖父や祖母)や育った時代から影響を受けて、そのような価値観や性格を保持するに至ったはずだ。
もちろん、その過程には辛かったことも含まれていただろう。
この世の中、誰しもが加害者であり、被害者なのだ。
一体、どこまで遡って、誰を裁けばいいのだろう。
突き詰めれば、ビッグバン(宇宙の始まり)が全て悪いのかもしれない。
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長くなってしまったので、ザッと自分の価値観をまとめて終わろうと思う。
・家族を持つことや子供を作ることは自由だ。それを否定するつもりは一切ない。
・生まれれば、楽しいこともそれなりにある。ただ、最終的に老病死を体験することは間違いない。(それでも産むべきか?)
・個人としては「家族や子供を持つ」ことによる”歪み”を嫌悪してしまう。
・とは言え、人との繋がりは大切だと思う。家族を持たない人も、何かしらの形で友好は維持するべきだ。
・人間は「DNAの乗り物」にすぎない。DNAの都合のいいように快楽や苦痛の条件が定められている。
・自分のDNAを後世に残しても何の意味もない。地球の終わりとか、宇宙の終わりで、最終的に人類は滅亡する。
・どんな人間だって加害者であり、被害者であるのだ(誰しもが、影響を与え、与えられている)。「許す/許さない」の判断はさておき、そのような事実は認識しておくべきである。