「反出生主義」について考える-人は生まれてこない方が良いのか?

「生まれてしまったことはめんどくさい」

このような内容を文章にして発信している者としては、触れなくてはならないテーマがあるように感じた。

いや、むしろそれを避けることは無責任ですらあると。

それは『反出生主義』である。

ご存知の方も多いと思うが、一言で言い表わすならば

「生まれてくること、及び出産することを否定する思想」

のことだ。

結論から言ってしまおう。

「自分は子供を作らないが、産みたい人は産めばいいし、産みたくない人は産まなければいい。(というか、そのようになるしかない)」

というのが自分の考えだ。

以下では反出生主義に対する批判的な議論も含まれる。

けれども、それは「人間は生まれない方がよい」という考えを、ある意味、愛おしいようにさえ感じているからである、ということを理解して読み進めて頂けたら嬉しい。

まずは「反出生主義者」の意見を見てみよう。インターネット上のものをいくつか抜擢した。

・苦痛回避論。生まれてくると苦痛を感じる。生まれてこなければ苦痛を感じない。だから全ての人は生まれてこない方がいい。

・快楽と苦痛の非対称性。人が存在する場合、苦痛が存在することは悪い(−)、快楽が存在することは良い(+)。一方、人が存在しない場合、苦痛が存在しないことは良い(+)、快楽が存在しないことは悪くない(±0)。よって、総合的に人は存在しない方がいい。

・ロシアンルーレット論。幸福を享受する人々がいる一方、不幸を引き受けなければならない人々も存在する。人間の営みには犠牲者が付き物。出産は一定の犠牲者を生み出すシステム。

・快楽があっても、苦痛があるのなら生まれたくなかった。

・地球の生態系を考えても、人間は存在しない方がいい。

・人はいつか必ず死ぬ。だから出産は殺人行為。

・生まれてくる子供は不幸になるかもしれない。そんなギャンブルは許されない。

・出産するのは親のエゴ。子供が幸せになる保証はなく、生まれてくる子供の同意も得られていないから。例え、親が「子供の幸せを願っている」ような善良な親であっても、難病に罹ったり、不慮の事故で、苦しんで死んでしまう可能性は否めない。

なるほど、個人としては頷いてしまうようなものばかりだ。

ちょっと長くなってしまうが、自分の「生まれてしまった」ということの価値観について、過去の記事から引用してみようと思う。

『「生まれてこない方がよかった」とは言わないが、「生まれてしまったことは本当にめんどくさい」と思う。我々は勝手にこの世に生み出され、決して思い通りにならない人生を歩み、老いて、病気になって、死んでいく。たまに、反抗期の青年が親に対して「産んでくれなんて頼んでない!」とキレるようなシーンをテレビドラマなどで見かけることがある。大人たちはその様子を見て「まだまだ青いなあ」とか「自己中心でまだ子供だなあ」などと考えるのかもしれないが、青年の言っていることは何一つ間違っていない。我々は望んでもいないのに、一方的にこの世に生み落とされ、生老病死の苦しみを味合わされるのだから。

生まれる肉体や環境を選べないということも非常に残酷だ。現代に生まれた我々はまだマシである。呑気に「人生はめんどくさい」と言えるのはかなり恵まれている方ではないだろうか。古今東西、逆らうことのできない自然の摂理や時代の流れ、近年で言えば戦争や飢餓によって「何のために生まれてきたのか分からなかったような人たち」「苦しみだけを受けてこの世を去っていった人たち」はたくさん存在したはずだ。全ての生物に当て嵌めれば、そんな存在が大半を占めるかもしれない。「生まれてしまう」ということはこんなにも惨たらしい。

さらに言ってしまえば、我々の「生」にはなんの意味もない。いずれは人類も、地球も、宇宙も滅んでしまう。全ては無意味で虚無なのだ。それなのに、多くの人々はなぜか「生きること」を当たり前のように肯定している。そんなものは何かに酔っ払ってるとしか思えない。

思うに、生の本質は「苦(死)」であるのだが、それから逃れる反作用の特典のようなもので「快」が用意されているのだろう。「生まれてしまう」ということは、例えるならば、中央に死が待ち構える蟻地獄に落とされてしまったようなものなのだ。何もしないとそのまま下に落ちていくのだが、これには苦痛が伴い、最終的に死に飲み込まれてしまう。それを避けるためには、他の生命を踏み台にしてでも、必死に上に這い上がろうとする他に無いのだが、この「上に上がる」という動作が快楽と紐付けられているのである。分かりやすいものだと「食べる」ということだろうか。自然界の弱肉強食に限らず、人間社会においても、「弱者を蹴落とす」や「権力を得る」など、生存や繁殖に有利な事柄が「快楽」と結び付いている訳である。

それにしても、人間として生まれてしまった時点で「これが気持ちいい」とか「これが不快だ」とか言うことが既に決定されてしまっているのは、本当にくだらないことだと思う。言ってしまえば、快楽や苦痛、現代的に表現するなら脳内物質によって、我々は「意味のないレース」を頭上にニンジンをぶら下げたウマのように、飴と鞭で走らされているだけなのだから。そして、頑張ったとしても最終的に力尽き、レースから脱落して、死という名の蟻地獄に飲み込まれることは免れない。

ああ、生まれてしまったことは本当にめんどくさい。』

我ながら、なかなかよく表現できた文章ではないだろうか。

自分は反出生主義者ではない。けれども、この世に生み落とされてしまうということは、非常に無慈悲で理不尽な出来事なのである。

次に反出生主義(者)に対するよくある批判を見てみよう。

まず、頻繁に見かけられるのが、「なら、さっさと死ねば?」というものである。

このような批判は反出生の内容を理解していない、無知な指摘であると言わざるを得ない。

反出生主義は現に存在することを否定している訳ではないし、そのような「人生の苦痛、及びそれによって引き起こされる自殺による苦痛」を避ける為にも「人は生まれない方がいい」と言っているのである。

むしろ、快楽と苦痛を主軸に捉えた思想なのだから、”生まれてしまった人々”は不幸を避け、幸福を追求するべきだという結論に至るだろう。

「反出生主義者を名乗るのだったら、早く死ぬべき」というのは全く論理的ではない。

そして、次は「反出生主義者は非モテの社会的弱者だから出産を否定している」「結局はルサンチマン(弱者の妬み)をそれらしい理由で正当化しているだけ」「酸っぱい葡萄(手に入らないものを貶す)でしょ」などである。

これらの意見に関しては様々な方面から考えてみよう。

まず、言ってしまえば「反出生主義はルサンチマンである」という側面は否めない。

人間、誰だって自分が可愛いし、正しいと思い込みたい。

思うに、結論ありきで人々はロジックを生み出すのだ。

自分はニートとフリーターを行き来するような生活をしばらく送っているのだが、ネットで「いかに働かないで生きていくのか?」という文章や思想を発表をしているのは、自分の「怠惰さ」や「ニートであること」を正当化したいから、という側面が間違いなくあるだろう。(別に完全に間違ったことを主張している訳でもないと思っているが)

「自分の人生がつらいから」「恋愛・結婚・子育てを経験することができないから」、そんなルーツはどこかしらに存在するはずだ。

下品で俗っぽい質問かもしれないが、反出生主義の人々は、とてもタイプの異性に性的なアプローチを仕掛けられ、子供を作ろうと言われたら、完全に拒否することができるのだろうか?(美人局だとかそういう可能性は除く)

ネタのように思われるかもしれないが、わりと回答に困るような質問ではあると思う。

ただ、そんなことはあり得ないからこそ、「生まれない方がよかった」なのかもしれないが。(ちょっと意地が悪く、矛盾した質問で申し訳ない)

しかし、ルサンチマンといえど、前に見かけたツイッターのあるアカウントはこのようなことを言っていた。

「反出生主義は弱者の主張かもしれないけど、オレの存在自体が『産むべきではない』という何よりの証拠のひとつだろ」

ここまで一貫した姿勢を取るのならば、”反・反出生”の人々も反出生主義者には一定のリスペクトを示すべきだろう。

そして、言ってしまえば、反出生主義者が社会的弱者であることと、反出生主義の正当性は全く関係ない。

この議論においては「反出生主義は正しいのか?」、その一点のみが追求されるべきなのである。

例えば、とっても性格の悪く、醜悪な見た目で、多くの人々に嫌われ、見下されているような数学者がいたとしよう。

彼はある新しい定理を発見した。これは数学的に間違いなく正しい。もしくは議論する価値があるものだとしよう。

それに対して、「発案者の人間性が悪いから」という理由によって、定理が認められなかったり、議論されなかったりすることは正しいだろうか。

絶対にそんなことはないはずだ。

つまり、反出生主義はルサンチマン的なルーツを含むかもしれないが、「反出生主義が正しいかどうか?」という議論において、それを提唱した者が社会的弱者だから正しくないという指摘は全くを持って意味をなさないのである。

(真剣に議論した結果として、ただのルサンチマンであった、ということはあり得るかもしれないが)

それでは、以下では反出生主義の正当性について議論していこうと思う。

議論のきっかけとして、有名な「ベネターの非対称性」を挙げてみよう。

これは先程も述べた、生まれると「快楽が存在する(+)」「苦痛が存在する(-)」だが、生まれないと「快楽が存在しない(±0)」「苦痛が存在しない(+)」であるので、「生まれる(プラスとマイナス) < 生まれない(±0とプラス)」。よって、生まれない方がよい、というものだ。

これは散々突っ込まれていることだが、まず1つ目の問題は「快楽や苦痛は定量化できない」ということである。

ドラゴンボールのスカウターのように「幸福度たったの5か…ゴミめ…」と測定することが可能だったら議論は変わってきたのかもしれないが、幸福や不幸というのは主観的なものでしかない。

そのようなふんわりとした観念に対して、大なり小なりのような数学的な記号を用い、「〜なので生まれない方がいい」と述べるのは厳密さに欠けるものがある。

そして2つ目の問題は幸福度や不幸度は個人によるということだ。身も蓋もない話であるが。

ベネターの理論を適用したとしても、生まれてきた人の中には、充分な幸福とひとつまみの不幸を体験して死んでいくような人もいるはずだ。

このような人は明らかに「生まれてこない(苦痛が存在しないという+のみ)」より、生まれてきた方がよかっただろう。

ただ、幸福な人生であっても、わずかでも「苦痛」が存在するならば、生まれないべきであるという意見も考えられる。現に老病死はどのような人間でも免れない苦痛なのであるから。

しかし、ここまでくると、思想の議論というよりは主観の押し付け合いになってしまうだろう。

「私は人生において大変な苦痛を被ってきた。なので、全ての人間は僅かでも苦痛が存在するのならば、生まれないべきである。」

これは「不幸になる可能性」を摘むものであるが、「幸福になる可能性」も否定するものだ。

この辺りの議論は「出産はギャンブルである」という結論に落ち着くのではないだろうか。

「出産はギャンブル。だから、全くしない方がいい。」

「出産はギャンブル。それでも、可能性に賭けて産むべきだ。」

両方あり得る意見ではある。

出産の賛否はひとまず置いて、別の切り口から考えてみる。

ここである2人の人物を想定してみよう。

1人はある貴族の家に生まれた男だ。

暖かい両親、安定した衣食住に囲まれ、充分な教養を学び、仕事においては人から尊敬され、同じ貴族の女性と恋に落ち、子供にも恵まれ、最後には眠るように老衰死していった。

彼の人生は殆どが快楽であったとしよう。9割が快楽で、残りの1割は「ハチにたまたま刺されてしまった」のようなちょっとした苦痛が存在するだけだ。

彼はもちろん生まれた方がよかったし、本人も生まれてよかったと考えただろう。

一方、もう1人は奴隷の一族に生まれてしまったような男だ。

生まれてから衛生環境の悪い奴隷小屋で過ごし、幼い頃から奴隷労働を続ける。食事も非常に粗末なものであり、一般的な娯楽も存在しない。苦汁を舐めるような日々が続く。そして、彼は若くして疫病にかかり、苦しみながら亡くなってしまった。

彼の人生は9割が苦痛であっただろう。

ただ、彼には唯一の楽しみがあった。それは寝る前に奴隷小屋の窓から星々を眺めることだった。

教養を持たずとも、星の美しさは分かる。彼は宇宙を眺めるのが唯一の快楽だったのだ。

ここで考えてみる。彼は生まれてこない方がよかったのだろうか?

苦痛を避ける為だったら、彼が星々を見て美しいと想うような気持ちも存在しない方がよかったのだろうか?

単純に「快楽」と「苦痛」を比較できない。もしくは、快楽と苦痛はお互いを打ち消し合ったりするものではないからこそ、この議論は単純では無いはずだ。

ここで一旦、原点に戻ってみる。

反出生主義とは「人は生まれない方がいい。または、繁殖しない方がいい」とする思想のことである。

なぜそこに至るかと言えば、「未来の人々(生まれるかもしれない存在)も含めて、全人類の幸福」を考えているから、というバックボーンが存在する故だろう。

分かりやすく、過去から現在までの全人類の幸福について考えてみよう。

現代には現代の苦しみが存在するとは言え、ある程度は恵まれている。「生まれてこない方がよかった」と文字を読み書きし、主張できる時点で、それなりに恵まれているということだ。

歴史的に考えれば、自然の摂理や時代の流れによって「何の為に生まれてきたのか分からないような人々」「苦痛だけを受けてこの世を去っていった人々」はたくさん存在したはずである。

「ハチに刺されたぐらいしか苦痛が存在しなかった貴族」や「星を見るぐらいしか喜びが存在しなかった奴隷」など様々な人々が存在したかもしれないが、「これまでの総人類の快楽と苦痛の割合」を割り出すことができたのならば、おそらく苦痛の割合が半分を超えることは間違いないように思う。

文明が発達する前は自然の脅威や暴力的な掠奪に怯え、村や国が成り立っても、一部の上位層が快楽を享受し、その他の人々は苦痛を伴う搾取を続けられていた。

そして、どんな人間でも老病死の苦痛からは逃れられない。

このように考えてみれば、苦痛の割合が少なくとも半分以上を占めることは間違いないだろう。

ここで多くの人は、思うはずだ。

「そう!だからこそ、喜びより悲しみの方が多い世の中ならば、これ以上人間は繁殖するべきでないのだ!」と。

しかし、このような全人類の幸福を第一に考える思想は、ある危険性を孕んでいる。

「功利主義」という思想を知っているだろうか。

「最大多数の最大幸福」を唱えた論理・政治学説のことだ。

なんだか難しそうに感じるが、ざっくりと言ってしまえば、「社会全体・人類全体の幸福量が最大となるようにすること」を至上とする思想のことである。

言葉のニュアンスを聞いた限りでは、なんだか素晴らしそうな雰囲気だ。

分かりやすいものでいえば、トロッコ問題だろう。(有名すぎるので内容は割愛する)

功利主義に基づいて考えれば、全体の幸せを優先する為、轢かれるはずの5人より、レバーを引いて1人のみを犠牲にするべきなのだ。

だが、これは果たして正しいのだろうか?

「全体の幸福を優先する」という理由で死ぬ必要のなかった1人の命が奪われたのである。

トロッコ問題においては「レバーを引いて犠牲を1人に済ますべきだ」と元から考える人も多いかもしれない。

しかし、こんな場合はどうだろう。全体の幸福を優先する為、国によりある決定が為された。それは臓器提供を受けなければ、死んでしまう患者たちの為に、ランダムで国民が選ばれ、心臓を、肺を、肝臓を、腎臓を、小腸を、強制的に移植されてしまうというものである。もちろん選ばれた人は死ぬ。

これは「功利主義」に基づいて考えれば、正しい。1人の犠牲によって、5人が幸せに生きることができるのだから。

このような「臓器くじ」が行われる社会は果たして正しいのだろうか?

更に功利主義を究極まで突き詰めてしまえば、人間が生まれたら死ぬまで、脳に電極を挿し続け、快楽物質に溺れ続けているだけの廃人を大量生産するのが最も素晴らしい。

なぜなら、それが、最大多数の最大幸福なのであるから。

…このように全人類の快楽や幸福を第一に掲げるような思想には、自由や人権が無視された、ディストピア社会を実現し得る可能性を含んでいるのだ。

(この辺りの議論は「正義の教室」を参考にさせていただいた。幸福・自由・宗教(道徳)、どの倫理が最も正しいのか?という哲学ガイド本である。おすすめ。)

よって、反出生主義も「(全人類の幸福を考えて、)人は生まれてくるべきでは無い。又は繁殖するべきではない。」と主張する思想であることから、功利主義のような自由や人権を無視する可能性を秘めているのだ。

ここで言ってしまう。自分が反出生主義者を名乗らないのは「人為的な実現がほぼ不可能であるから」である。

不可能な思想を信じ込み、主張するのは、もはや”思想”ではない。”宗教”だ。

ここで状況を整理してみよう。

人類が存続していても、基本的に不幸な人々を再生産するだけだ。快楽より苦痛の総量の方が上回るだろう。→だからこそ、人類は「産まない」ことを選択するべきだ。

でもどうやって?

極論から挙げていけば、反出生主義を手っ取り早く実現するには、全世界に核ミサイルをばら撒くなりして、全人類を滅ぼしてしまうことだろう。

もちろん、燃えて焼け死んだり、放射能で苦しんで死ぬのは、人類の幸せを至上とする反出生主義としては、大変心苦しいことだが、過去から現在、現在から未来までの「全人類の快楽と苦痛の総量」を考えれば、現在に人類を滅ぼしてしまうことは、「未来の人々に苦痛を味合わせない」という点で正しい。

ただ、そんなことは現実的に考えて不可能なのだ。

それならば、反出生主義を広め、次第に衰退していくような、ソフトな方法に乗り換える必要があるのだが、これまた厳しいものがある。

理由は2つ考えられる。

まず、1つめに反出生主義は人類の原始的欲求に逆らうものだからだ。

産んで増やす、遺伝子の奴隷である我々にはそれが素晴らしいことであると本能的に設定してある。

おそらく、自分だって、反出生の人々だって、何かのきっかけで子供を産んだのならば、「やっぱり子供って素晴らしいな!人は子供を作るべき!」と言い出すのだろう。

これは我々の意思が薄弱とかではなく、赤ちゃんが素晴らしいものに思えるような「そういう造り」になっているのだから仕方がないことなのだ。

ただ、これに関しては今の通り、産まなければいいだけの話である。

ここで言いたいのは、インターネットでこのような議論をしていると、多くの人々がナイーブな感覚を持ち合わせているように錯覚してしまうが、人類のメインストリームを見てみれば、内向的な人々は2〜3割で、多くの人々は欲望に忠実で、生(性)を発散し、それを愉しむような在り方をしているということだ。

そんな人々に反出生主義を主張しても、おかしな宗教だと思われてしまうのがオチだろう。

それならば、個人で反出生主義を信仰していくしかないのだが(いわゆる「チャイルドフリー」だろうか)、これも全体に及ぼす影響としてはほぼ無意味だ。

人類の流れを巨大な大木だと想像してほしい。内向的で反出生主義者のような人々は時々現れる枝分かれ(つまり、その先はない)なのだが、そこで小さな反出生主義が達成されたとしても、メインの主木が続いていく限り、またいつか小さな枝分かれが誕生して「人は繁殖しないべき」と言いつつ、自分だけ未来を閉じてしまう…という行いの繰り返しなのである。

前に部活動のいじめ問題に対して、こんな考察があった。自分が言いたいのは大体これに似たようなノリだ。

上級生「オラオラ!」

下級生「ああ、自分たちが先輩になったらこんなイビリはやめよう…」

上級生(元下級生)「ニコニコ^_^」

下級生「ウェーイw(調子に乗る)」

上級生(元下級生)「オラオラ!」

下級生「ああ、自分たちが先輩になったらこんなイビリはやめよう…」

の以下、無限ループ

どんな時代でも「苦しみを味合わせない為に子を作るのはやめよう」と考えた人々はいたはずである。

それでも、結局は子を作る人々は存在する訳であり、その後再び、その主流からはみ出てしまった人々が「苦しみを味合わせない為に子を作るのはやめよう」と考える、という人間的なカルマの繰り返しなのだ。

しかし、それでは話が進まないので、仮に人類全体が穏やかに衰退することを選んだとしてみよう。積極的に子供は作らないというルールを世界全体で決めたような。

それでも、反出生主義は実現されないだろう、と考えるのが2つ目の理由である。

穏やかに衰退、というと聞こえはいいかもしれない。多くの人々が想像するのは、廃退した世界観で少数の人々が戯れるようなユートピアだろうか。

ただ、現実はそう甘くないはずだ。人口が激減するということは、国や治安のシステムが崩壊するということであり、どちらかと言えば北斗の拳のような世界観になるのではないだろうか。

そんな世界では、強姦が多発するかもしれないし、人々は生きる為に子孫を残し、運命に抗おうとするはずだ。

人間はしぶとい。結局、原始的な暮らしに戻っただけで、社会の復興が始まっていくように思う。

もし、本当に人類の衰退を達成するならば、「永久に持続する不妊・無精子注射」を全人類に強制的に注射する必要があるのではないだろうか。

それはそれで充分にディストピアである。

そろそろ、まとめに入ろう。

以上のように、自分は「反出生主義は達成されることがないので、思想を抱いても無意味である」と考えている。

更に言ってしまえば、自分以外の何かをコントロールするということは、明らかに不可能なのだ。

特に人類の原始的欲求に逆らうようなことは。

ツイッターでよく見かける画像

けれども、矛盾するようだが、「反出生主義を主張することは無意味ではない」とも考えている。

自分の家庭環境はあまり良くなかった。世間体を気にしてお見合い結婚をしたようだし、子供を作ったのも同様の理由だろう。

自分は小さい頃から母親に「あんたがいなければ離婚するんだけどねえ」と言われながら育てられ、父親は家族を養うプレッシャーから精神安定剤を飲んで働いていた。

「子供なんて産んでしまえばどうにかなる」

本当にその通りだと思う。

ただ、その”どうになる為の歪み”が親や子に押し付けられることが、非常に残酷なのである。

「それが当たり前だから」で子供を産んでしまうような世の中は明らかにおかしい。

「出産はギャンブル」「出産は殺人行為」

過激な言い方ではあるが、客観的に見れば間違ってもいない主張だ。

反出生主義を他人に押し付けて強制するようなことを善いとは思わない。また、反出生主義が人為的に達成されることもないだろう。

それでも、「本当に子供を産むべきか?」ということを人類全員が熟考する為にも、反出生主義は道徳の授業で教えるのにさえ、値するような内容であると思う。

そのような教育を受けた人々が子供を産むとしても、結果的に幸せに育てられる子供が増えるのではないだろうか。

ルサンチマンによる非人道的のような思想に思われがちであるが、本来、反出生主義とは「やさしい」思想なのである。

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