『自分探しの成れの果て』を読んで

■ 自分探しの成れの果て

『自分探しの成れの果て』というnoteを読んだ。著者は貧BPというハンドルネームで活動している方である。

『自分探しの成れの果て』|hin_BP|note
労働を嫌い「自分探し」をひたすらに続けた人間の末路は? 新書一冊分のボリューム。

氏は2010年代インターネットのニート界隈や社会不適合者界隈で有名だった方で、外ごもりのライフスタイルを実践し、ブログを運営したり、メディアから取材を受けたりしていたようだ。

そと‐こもり【外籠もり】 の解説
《国内での引きこもりに対して、海外で引きこもること》特に目的もなく、海外に長期滞在すること。多く、日本でアルバイトなどをして得た金を物価の安い国で少しずつ使って過ごす。金が尽きたら帰国して働いて貯め、出国するのを繰り返す。

goo辞書 より

キャリコネ – 生活費は年間30万 貧BPさんが「外こもり」を選んだ理由【外こもりのすすめ(1)】

正直、僕は2010年代のリアルタイムなニート事情には疎い新参者(?)である。(pha氏などが積極的に活動していた頃だろうか?)

貧BP氏のことは知らなかったのだが、noteを読ませていただいて、「ああ、分かるなあ」「他人事じゃないなあ」と感じることが多々あったので、引用とともにここに感想をまとめておきたい。

 

■ 労働への嫌悪

(氏は浪人生時代に新聞奨学生として、新聞配達の仕事を行うことになる。
だが、そこで体験・目撃したのは過酷な底辺労働と、無為にギャンブルなどで日々を過ごす、中高年従業員の姿だった。)
 
 いったいこの人達にとって人生ってなんなんだろう? 生きがいはあるのだろうか? 社会人として何十年も生きてきた帰結がこんなものになるなら、いったい働く意味はどこにあるのか? そういう疑問が渦のように毎日毎日、頭をよぎった。
 普通ならここで、俺はこんな負け犬にならない、いい会社に入って給与をたっぷりもらって、いい人生を送るのだ。そうヤル気が湧いてくる人もいるのだろう。だが自分は、働くということそのものに疑問を持ってしまった。人の人生なんて、何が起きるかわからない。運悪く失敗しこんなことになってしまったらどうするのか? 努力が報われない結果こんな歳でこんな底辺労働をする羽目になったら、いったいどうするのか?
 これが、刹那的な生き方を決定づけた最初のきっかけだったように思う。

1.労働への嫌悪を刷り込まれた、浪人時代の新聞配達

 教員採用試験のことも考えないではなかった。だが同時に、このまま社会人になることへの疑問もあった。当時はすでに就職氷河期に入っており、就活をしている同級生たちはそれなりに大変そうに見えた。そんな彼らにかぶさって、かつて新聞配達をしていた当時の専業たちが浮かんでくるのである。ちゃんと就職し、がんばっても、結果としてああなる可能性は否定出来ない。そもそも会社に入るということは、毎日毎日通勤電車に揺られ、9時6時の仕事を40年近くも続けるということを意味する。人権問題に興味のあった自分は、サービス残業やろくに有給休暇が取れないことが常態化している日本企業の状況はよくわかっていた。そんな人生を送るために必死になって就活するのか? 働くのか? とてもじゃないが耐えられない……自分はそう思った。遅かれ早かれ欝になって自殺して終わりだろう。もって数年か? だがそれは、今バイトしてる出版社に入ったって同じじゃないか?

1.労働への嫌悪を刷り込まれた、浪人時代の新聞配達

「人生なにが起こるか分からない」

「毎日満員電車に揺られて、9時~18時の仕事を40年も続けるのに耐えられない」

「早かれ遅かれ鬱になって自殺する」

ああ、分かりみが深い。

「ソレが当たり前だから」という理由で、サラリーマン生活を受け入れることは僕にも無理だった。

さらに言えば、「40年経たぬうちに何らかの理由で、人生や社会からドロップアウトしてしまうだろう」というのも全く同じ感想である。

そして、そうなると、人生(生きること)に対して別のアプローチ方法を探るしかない。

それが「自分探し」なのか、「現実逃避」なのかは分からないが……。

 

■ アクティブニートとパッシブニート

 大学を卒業し、4月15日。自分は初の海外に飛び出した。知人が「初めての海外は船で行くと、海外というのが遠いところだと実感できるよ」と言っていたので、神戸から燕京号という名の船で中国の天津に渡った。(中略)

船は二泊三日の航海だった。360度見渡すかぎり海。他の船は一隻も見えない。海外とはまさに海の外なのだなぁと感慨深くしたのを今でも覚えている。

2.人生初めての海外、バックパッカーの衝撃

氏は大学を卒業したあと、バックパッカーとして海外を旅することになる。

中国、ベトナム、カンボジア、タイ。

インド、イラン、トルコ、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプトなど……。

noteを読んでいて、氏に共感する部分は多くあったが、この辺りのバックパッカー的アクティブさについては、僕は全然持ち合わせていないな、と思った。

むしろ、個人的な意見を言うならば、「海外って行きたくないな」という気持ちの方が強いぐらいだ。

なんというか……、めんどくさいのである(笑)

そりゃ、海外に行けば、新しい刺激を体験したり、特有の空気感を味わうことができるのかもしれない。

だが、そのためには働いてお金を貯めたり、パスポートを取得したり、飛行機や宿を予約したり、英語や現地語を勉強したり、治安的なリスクに気を払ったりする必要があるだろう。

そういうことを考えてしまうと、それら全てがめんどくさく感じてしまうというか、「それだったら自分の家でゴロゴロしてた方がいいや」と思ってしまうのだ。

アクティブニートとパッシブニート。別にどっちが良い悪いとかいう話じゃなくて、どっちのタイプの人もいるよね、と思う。

 

■ バックパックギャンブラー!?

 ここ2年のバックパッカー人生を通じ旅の面白さに目覚めた自分は、まだまだ見に行きたいところがあった。可能な限り旅を続けたい、働きたくない……そんな自分にとって、カジノで稼ぎながら旅を続けるという生き方はとても魅力的に思えた。家族関係を崩壊させたギャンブルへの嫌悪を払拭させるほどに。

4.『ノストラダムスの大予言』

 日本に帰国した自分は、今度は世界一周を前提とした資金稼ぎに励むことにし、自動車工場の期間工になった。働きながら、ブラックジャックの練習に励んだ。ゲーセンにカジノさながらの筐体があり、そこでも練習に励んだ。(中略)

 1年の期間工生活で250万円を貯め、2001年8月、韓国の釜山に船で渡った。カジノで稼ぎながら旅をし続ける人生、バックパックギャンブラーの始まりだ。

5.バックパックギャンブラーへの道

なんとその後、氏はバックパックギャンブラーを目指すことになる。

まあ、世間一般的には褒められたような生き方ではないのかもしれないけれど、個人的には「そういうのイイな」と思ってしまう。

赤木しげる的というか、根無し草の風来坊というか、男のロマンというか……。

僕自身がギャンブルを殆どやらない性格だからこそ、対照的に憧れがあるなーっていう部分もあるのかもしれないけれど。

 

■ 仏教との出会い

その後10月にはネパールに到着。首都カトマンズには一ヶ月近く滞在した。ここで自分は、新たな衝撃に出会うことになる。ヴィパッサナー瞑想、仏教との出会いである。

6.傷心のアジア、そして、仏教との出会い

 10日間のコースを終え、自分が以前に抱いていた「仏教はダサい」という印象はすっかり払拭されていた。もっと知りたいという気持ちが強くなっていた。ブッダはたしかにすごい。彼の言ってることはまさに真実だ。「盲信はしてはならない。自ら挑戦し、体験し、自ら確認する。それが大事なのです」という話もとても腑に落ちた。これはキリスト教などのように信仰するものじゃない。自ら体験し納得しうる、まさに哲学なのだと。

6.傷心のアジア、そして、仏教との出会い

結論から言うと、バックパックギャンブラーという生き方は失敗に終わってしまったそうだ。

バカ勝ちしたり、大会で優勝したこともあったそうだが、「一進『二』退」を繰り返して、資金を失ってしまったらしい。

そして、氏は傷心のままタイやネパールに滞在するが、ここで仏教に出会うことになる。

続きを読んで貰えれば分かるが、仏教との出会い(瞑想合宿への参加)は氏の人生に大きな影響を与えたようだ。

まあ、やはり長期ニートはどこかで仏教を経由しているよなー、という印象はある。

(最終的に仏教に対して、肯定的であるのか、中立的であるのか、否定的であるのかは人によるが)

 

■ 瞑想か、レイヴか

 レイヴ(レイヴパーティー)とは簡単に言ってしまうと、野外で大音量のトランス音楽を聞きながら好き勝手に踊るというものだ。だいたいにおいてガンジャ(マリファナ)、LSD、MDMA(エクスタシー)などのドラッグはセットでついてくる。これを否定しても始まらない。実際そういうものなんだから。

7.「生きてるって素晴らしい!」

 夜が白み、朝日が登ってくる。その朝日のなんと神々しいことか。まさに神そのものだった。すべてはそこから生まれ、そこに帰っていく。自然と手を合わせ、拝んでいた。涙があふれた。自分はこんなにも素晴らしい世界に生きているのだ。そのことに気づかなかった自分はなんと愚かで、バカな人間だったのか。だがそんな半生も全てはここに行き着くために用意されていたことだったのだ。
 全人類、全地球、全宇宙が愛に満ちあふれていた。人を愛することがこんなに素晴らしいことだったとは、夢にも思わなかった……!

7.「生きてるって素晴らしい!」

 瞑想によって感じた世界、ゴアで感じた世界、どちらにも意味がある。だが、今後の生き方という意味ではやはり仏教を指針にすべきなのではないかと考えた。とくにあの瞑想の世界、あれを極めた先にある涅槃、解脱とはどういうものなのだろう? ブッダはここブッダガヤにある菩提樹の木の下で悟りを開き、涅槃を成就した。そしてそれは、誰もが辿りつける境地だという。きっとそれはゴアで感じた世界にも通じるものがあるに違いない。ではどうすればそこに到達できるか? やはり仏教なのだから、出家して修行するのがもっとも近道ではないか?

 そうだ、出家しよう! これをこそ今後の人生の生き方とするのだ! やっとカジノに変わる新たな生き方を見出したぞ!!!

 ある意味ではその後の自分を支える祝福となり、ある意味ではその後10年を縛る呪いを生み出した瞬間だった。

7.「生きてるって素晴らしい!」

次に、氏はレイヴパーティーを体験する。

(鶴見済氏も『檻の中のダンス』でレイヴに熱狂したことを記していたような)

僕も昔はバンドをやったりライブハウスに通ったりしていたので、音楽的陶酔はまあわりと分かる方だとは思う。

そこに「生きててサイコー」という感情を見出すことがあるのも概ね同意だ。

そして、そういうトランス的な境地を追及するべきなのか、仏教的な涅槃寂静を追及するべきなのか、と悩むのも僕と同じである。

世俗的なレイヴと脱俗的な仏教は、真逆なようで最終的な地点で繋がっていると言うか、「通じるものがある」のだと。

 

■ 仏教入門へ

仏教に希望を見出した氏は、バイトやバックパッカー生活を続けながら、タイ(上座部仏教)で出家体験をしたり、日本で国際仏教塾に入塾したりする。

この辺りの行動力は本当にすごいな、と思う。

そして、氏が感じたのは日本仏教に対する失望感であった。

拝金主義・意味の感じられない形式主義・修行という名の暴力・形骸化した葬式仏教・妻帯や飲酒の自由など……。

まあ、この辺りの感想は分からなくもない。

もちろん、日本のお坊さんの中にも真摯に修行をしている方々が存在することは間違いないと思うが、上記のような批判や疑問を抱くのも「仏教に希望を見出した人」ならある意味当たり前のことだ。

ニートなら原始仏教(今で言うなら上座部仏教)の教えの方が、親和性は高いのではないかと思う。

 

■ うつ病発症

結果は、うつ病。薬を処方されたが、医師の話では誰とも会話がないという環境が問題なので、それ自体を変えなければどうしようもないという話だった。

9.うつ病発症

正しく言えば、薬の効果が恐ろしくて、早く止めたかったというのもある。パキシルといううつ病ではとても有名な薬を処方されたのだが、この薬は服用開始から効果が出始めるまでに数日かかる。数日かけて徐々に、ネガティブなことを一切何も考えられなくなっていくのだ。これは自分自身、はっきりとわかった。一週間も飲み続けると、妙なハイテンションで、やることなすこと全てが楽しく感じられるようになってくる。強制的にネガティブな考えをすることを禁止される感覚だ。

9.うつ病発症

この異常な感覚は恐ろしかった。うつ病治療とは、こういう薬を使って無理矢理に前向きにさせることであり、それが治療効果が出ていることになってしまうのかと、衝撃も受けた。ともかく働かねば生きていけない人にとっては、強制的にでも精神状態を改造し働くしか無い。そういう非人間的な状態を作り出してでも、働かされる。このなんと異常なことか。
 薬を飲んで無理やり働かねばいけないわけでないなら、働かないで治療した方がいいに決まっている。今の環境が原因である以上、その環境を変えてしまえば治るのだから。おかしな薬を飲む必要もなくなるのだから。
 そう考え、申し訳ないが辞めさせてもらうことにした。

9.うつ病発症

その後、氏は日本で通信販売の事務の仕事を始めることになるが、会話の無い単調な作業が続く毎日に鬱病を発症する。

引用した抗鬱剤の感想、分かるなあという気持ちだ。

僕が飲んでいたのはパキシル(SSRI)ではなく、イフェクサー(SNRI)であるが、妙にカラ元気になるというか……。

別の表現をするなら、無理矢理テンションが高くなるとか、ピーキーでそそっかしくなる(躁気味になる)とか言ってもいいかもしれない。

あと、キレやすくなることもあった。

念のために言っておくと、僕は怒ったりキレたりすることは滅多にないのだが、抗鬱剤を飲んでいると、他者のちょっとした言動で頭が「ブチッ」となり、怒りそうになってしまう。

(逆に、「ああ、これがいわゆる『キレる』なのか……」なんて思ったりもしたものだが)

確かに抗鬱剤を飲めば、寝たきり鬱病患者よりはマシになるのかもしれないが、「そんなの人間らしい生活なのだろうか」という感想も氏と全く同じである。

 

■ なんだそれ?

話を仕事に戻そう。こういう出会いを重ねながら日々働いてきたわけだが、正直労働の日々は苦痛でしか無かった。残業がほとんどない職場だったが、家に帰ったら疲労困憊している毎日だった。

 これは以前からよくあちこちのネットに書き込んでいることなのだが、普通の労働者は、1日8時間働く。職場での昼食休憩1時間。往復の通勤で3時間。この時点で、24-8-1-3=12時間。人がどれだけ睡眠時間が必要かというのは個人差が大きいと言われており、5時間で平気な人もいれば9時間寝ないと絶対にダメという人もいるらしい。平均は7~8時間だそうで、間をとって7.5時間としよう。12-7.5=4.5時間。朝食や夕食の準備、食事時間、洗濯にお風呂で1.5時間は必要だろうか。4.5-1.5=3時間。そう、残業が全くない人でも、1日の自由時間はたった3時間なのだ。通勤時間をゼロにしても6時間だが、東京で働く身だとそうもいかないし、身動き取れない満員電車の中ではできることも限られる。
 毎日たった3~6時間の自由時間しか無い日々で、いったい何ができるというのだろうか? しかもこれが定年を迎えるまで何十年も続くのだ……冷静でいられる方がどうかしている。

 しかもこれは、残業がない場合だ。労働基準法で認められやすい月40時間までの残業だって日で割れば毎日2時間ずつぐらいになる。自由時間は1時間だ。なんだそれ? それでどうしろと言うんだ? ドラマひとつ見たらそれで終わりじゃないか。

 正直これでは、土日など体を休めるのが精一杯で、どこかに行く気力など湧いてこない。少なくとも自分はそうだった。

11.アヤワスカと悟り

通販の仕事を退職した後、氏は中小企業で正社員として4年半働くことになるのだが、そのときの気持ちを上記のように語っている。

正直、引用としては長くなってしまったが、僕のような「働くのが苦しい」勢にとっては同意しかないので、大幅に引用させてもらった。

どうして世の中の大半の人々は、「それが当たり前だから」で労働生活を受け入れることができるのだろう? おかしくなってしまわないのか?

それとも、僕のような人間が出来損ないであるだけなのか?

 

■ 悟りを開ける者は2種類いる

 この10年の間には、無明庵EOという覚者(悟りを開いた人)の本とも出会った。おそらくほとんどの人は知らないと思う。その出自や正体は正直うさんくさいし、存在自体疑わしいとする人もいる。ごくごく一部の、超マニアックなスピリチュアル好きの間で知られてる程度の人間だ。
 だが偶然古本屋で手にした彼の本で書かれていることは衝撃的だったし、自らの悩みをするどく突く言葉でもあった。

 いわく「悟りとは絶対的・完全な無になることである。そんなもの誰も求めちゃいない。悟りが必要なのはそれを得なければ死ぬしか無いという人間だし、そういう人間ならばそれは自動的に起きる。悟りなんてものは、決して一般的に広めて良いものではない」と言うのだ。

15.悟りとは必要な人以外には無用の長物だ

孫引きになるが、無明庵EO氏の文章も引用させてもらう。

「(悟りを開く者には)確実な基盤がある。悩みの種となるような家族や人間関係がいないことに加え、趣味や夢中になるものがないことだ。これには2つのケースがある。もともと何ものにもあまり熱中しない性質の人の場合。もうひとつは、自分の射程範囲で楽しめること、考えること、やれることはやりつくし、異性の肉体関係から心理的関係問題まで、『かたがついている』ことだ。やれ哲学、やれオカルト、と分かったような事を口だけで言い、その実、性のコンプレックスや不満をかかえたいわゆるオタクを私は見てきた。彼らときたら全く何の可能性もない。性的な不満を持つ主婦なども同じである。性中枢は厳密に心理的トラブルに直結する。使い尽くすまで十分に満足しておかないと、のちに墓穴を掘るから禁欲などもってのほかだ。もううんざりだというまで楽しんだ後で初めて次の作業にかかれるのである。 こうして、心理的負担や肉体の生理的要求がほぼない状態で闇への旅は開始される。」無明庵EO 『廃墟のブッダたち外伝』 P.29-30 より

15.悟りとは必要な人以外には無用の長物だ

 自分には、ネパールで仏教に出会った当初からの疑問があった。それは、ブッダの出自についてだ。
 彼は王家の王子として生まれたが、子供の頃から物思いにふける傾向があった。父であるスッドーダナ王は彼に対しこの世の快楽をこれでもかと徹底的に与えまくり、なんとしてもこの世の中に魅力を見出すよう務めたと言われている。

 結果としてブッダはそれらをすべて捨て出家したわけだが、それは体験としてこの世の快楽・栄耀栄華をすべて満喫し、その上で飽きるというプロセスを踏んだからではないだろうか? 体験していないものについてそれが良い悪いとはなかなか言えるものではない。それはしょせん、想像の範疇にしか存在していない。

15.悟りとは必要な人以外には無用の長物だ

noteで無明庵EOという名前を見て驚いたものだ。僕もこの方のサイトを読んだことがある。

まあ、正直うさんくさいというか、90年代のアングラ系という感じはするが、興味深い内容も多いので、気になった方はあとで読んでみてほしい。

虚無宇宙からの伝言 – 無明庵

さて、無明庵氏が言うには「悟りを開く人(が持つ基盤)には2パターンある」という。

それは「① 生まれつき欲求が薄い人」と「② あらかた欲の限りを尽くしてきた人」である。

そして、貧BP氏はブッダは後者のプロセスを踏んだからこそ、悟れたのではないか?と主張するのだ。

なんだか後出しじゃんけんのようになってしまうが、これら2人が考えている内容と全く同じことを、僕も考えていた。

「ブッダよ、お前は全てを得ていたからこそ、全てを捨てられたんじゃないのか?」と。

 

■ 瞑想道場に入門

氏の実生活に話を戻すと、氏は東日本大震災をきっかけに仕事を退職し、苦悶の末にミャンマーの瞑想道場に入門することになる。

16章の「瞑想道場で迷走」では、その辺りのかなり具体的な実状や体験談が乗っていて面白い。

過酷な暑さ、食事の飽き、性欲の問題、止まらぬ妄想……。

ネタバレをしてしまえば、修行は2ヶ月で一旦終わりを迎えることになるのだが、それでもすごいなあ、と思う。

僕も漠然と「出家してえ……(訳:この煩わしい世俗から離れたい)」なんて思うときはあるが、実際の出家生活にはとても耐えられる気はしない。

8章と16章は、仏教に興味のあるニートにとっては、かなり貴重な記録であると感じた。

 

■ こういう人いるよね

 その晩、シェアハウスの住人が、現地で出来た友人と一緒に帰ってきて、酒盛りになった。その友人とは偶然、昼間に面接を受けた会社の幹部をしてる人だった。
 まさにベンチャーの最前線ビジネスマンという感じで、これまでの職歴も華々しく、20代半ばにしてすでに1億円は稼いだ、でも全部使っちゃったけどね~とのことだった。車も欲しい、ボートも買いたい、女の子にもてまくりたい、500万の腕時計……なんだか、バブル時代の人と話してるかのような印象だった。

 そんな彼と、生活保護や日本の3万人自殺についての話になった。
 

「今は法律があるから無理だけど、無ければ切り殺したい。俺の税金があんなやつらに使われてると思うと腹がたって仕方がない。自殺も、死にたい人は勝手に死ねばいい、そんなことに俺の金も頭も使いたくない」
 

 正直、とてもむかついた。
 

「生きてる間は楽しみまくりたい、やりたくないことはやらない」
 

 では、仕事とやりたいことが一致しない場合はと聞くと、一致させればいいじゃん、と。どうやって? と聞くと、そんなのやる気次第だというような返事だった。あー、こりゃ噛み合わないなと諦めた。

 続いて仕事観の話になった。自分は公私の区別をつけて、私的な時間はのんびりしたいから定時で上がりたい、多くは望まないと言う。彼は「そんな人生の何が楽しいのか」と言う。公私を分けるより、全てをプライベート、好きなことにすればいくらだってがんばれるのにもったいない、と。それがうまく合うかは運だし、好きなことだろうがハードワークを続けたら過労死するかもしれない。必要な睡眠時間は人によって違い、無理な人もいるのだと返したら、「そんなのやらない言い訳だ」と言う。いや……やってあわなかったら死ぬけど?

「死ねばいいじゃん!!!」

 そういう人のために社会福祉があり、規制をかけて強制的に再分配させる道を人類は歩んできたのでは?

「いやいや、ただの体面。こじきが町にいたら汚くて、国家の尊厳が汚されるじゃん。仕方なくやってるだけで、自立できない奴は死んでくれた方がいい」

 話していて本当に疲れたし、嫌な気分にもなった。「きっとあなたの会社には受からないでしょうね」というと「そうでしょうね、そのほうがお互い幸せだと思います」とも言われた。

18.日本人労働者が海外で職を探すということ

修行寺を去った後、なんやかんやあって、貧BP氏はフィリピンのシェアハウスに住むことになるのだが、上記はそのときの一節である。

あー、そういう人いるよねって感想だ。

特に大学でよく見かけた。僕の大学はキリキリしてる厳しめの理系大学だったから、「実力・仕事・収入が全て」「人生は全て自己責任」みたいに考えている人が多かったのである。

まあ、個人的な結論としては、話は噛み合わないけど、そういう人にはバンバン経済を回して貰って、のんびり生きたい人はのんびり生きればいいんじゃないの、と思う。

 

■ 自分探しの果てに……

 働くこと以外で生きていく道、働くにしても天職のようなものと出会えることを、心の何処かで期待していた。それが自分の、バックパッカー人生だった。

 一時は仏教にその光明を見出し、仏教で生きていこうとまで決意した。だがその決意は、自分自身はしょせん欲深く修行にすら耐えられないという情けない現実の前に、もろくも崩れ去った。
 その後に残ったのは、働きたくないという「欲望」ばかりが先走り、動くに動けなくなった自分だ。宝くじでも当たれば「働きたくない」という気持ちそのままに残りの人生を生きていけるかもしれないが、そんな予定は当然、無い。

21.自分探しの成れの果て

嫌なことは出来るだけ避け、どこかにきっと転がっているだろう「自分」を探し続け、何も見つけられずに朽ちていこうとしている中年男性が、ここに、いる。

21.自分探しの成れの果て

貧BP氏の近状報告によると、『自分探しの成れの果て』が書かれたのが2016年で、その後はハンドキャリーの仕事やアフィリエイトブログの成功などあったものの、今は再び苦しい状態であるという。

年齢・就職・貯金・健康問題・親の介護などで様々な不安があり、かなり行き先が暗いように語っている。

だが、果たして氏の生き方は間違っていたのだろうか?

中には強く批判をする人もいるかもしれないが、僕にはそのような人生を否定することはできない。

なんというか、氏はいわゆる「そういう風にしか生きられなかった人」なのではないかと思う。

諦めじゃないが、それなら「しょうがなかったんじゃないか」という気持ちが強い。

 

ただ、こうやって、氏に対してある種の肯定的なスタンスを取れるのは、僕がまだ20代後半だからなのかもしれない。

ニートうんぬんでキャッキャッして、中年以降の絶望を知らないだけであると。

もしくは、僕がおそらく氏のような人生を辿ることを自覚しているからなのか?

それを否定的に捉えたくないだけであると……。

 

長くなってしまったが

・ニートやフリーター

・働きたくない

・自分探ししちゃうタイプ

・旅人タイプ

・ギャンブラー

・仏教に興味がある

な方は読んでみてほしい。

『自分探しの成れの果て』|hin_BP|note
労働を嫌い「自分探し」をひたすらに続けた人間の末路は? 新書一冊分のボリューム。
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