タイトルが良い。スパッとした断言に痺れる。
自身も自由意志の存在には懐疑的であったので、色々と参考になった。
著者は心理学専門の学者であるが、心理学に留まらず、生理学、脳科学、量子論、人工知能、仏教、哲学、アート、文学、サブカルなど…。
様々な分野から「自由意志の不在」にアプローチを試みるというものである。
著者曰く、”トンデモ本”であるというが、その教養とアンテナの広さには驚かされる。
内容も、自由意志を否定するからといって、厭世的という訳ではない。
今回の記事は自身の為の勉強と備忘録も兼ねて、内容を簡単にまとめていく。
気になった方はぜひ読んでみて頂きたい。
(ネタバレが過ぎるという指摘がありましたら削除致します)
–
はじめに
「心理学決定論」=「この世は全て事前に確定しており、自分の意志は幻影である」
心理学、生理学、脳科学、哲学、アート、文学を横断して眺めても、繰り返し同じ結論、相似の結論、すなわち心理学決定論が得られる。
–
1章 自由意志と決定論と
・能動的意志の無限後退
「右手を挙げる意志(意志1)」には、「右手を挙げる意志を持つための意志(意志2)」が必要である。
そして、 「右手を挙げる意志を持つための意志(意志2)」 を持つためには 「右手を挙げる意志を持つための意志を持つための意志(意志3)」が必要である。以下、繰り返し…。
もし、意思が能動的なものである場合、意志を持つ主体が無限に後退してしまう、という問題。
・哲学者ギルバート・ライルによる「哲学的行動主義」
身体に依存せずに心が存在することはありえない。
「優しい」という概念は概念としては可能だが、それが実在する時には、必ず「”優しい”という行動パターン」が伴うはずである。
例えば、「優しいまなざし」にも、見つめるという行動が伴っている。
・この本における「意志」と「意識」の違い
意志…我々の行動を自分自身で制御するために、脳内に生じる自分自身の意図のようなもの。
意識…より広範な脳内の活動を示し、行動、認知、思考、記憶、感情、睡眠、欲求などを制御する「自分自身の脳の働き」。
というのが、アバウトな理解である。
「なぜ意識があり、それがどのように意志を生んでいるのか?」という問題については、21世紀の圧倒的な科学力の進歩にも関わらず、解明の方法論さえ持ち合わせていない。
・リベットの実験
被験者に、自由意志で好きな時間に手首を動かしてもらう。
その際に、身体が動き始める前に出始める脳波、準備電位を測定する。
その結果、0.55秒前に準備電位が発生し、0.2秒前に「手首を動かそう!」と被験者が意志を持ち、0.0秒に手首が動いていた、という結果が得られた。
つまり、脳が無意識に動き出し、その後、意志が形成され、実際に動いた、というのが正しい順序なのである。
→ 意志が形成されるよりも先に脳は動いている。
・ラプラスの悪魔
情報さえ揃えば、未来は確定する。全ての情報を知りうる悪魔にとって、未来はすべて確定済みである、という考え方。
我々の行動も、肉体と環境の情報が十分に揃い、解析をしたならば、一意に定まるのではないか?
(とはいえ、予測精度が高いことと、未来の事前確定は同一ではないし、因果関係にはない)
・決定論
哲学において、「全ての行為が事前に決まっている」という考え。
・下條教授の実験
被験者に2人の異性を表示し、どちらが魅力的であるかを判断してもらう。
→意思決定の数秒前から、眼球の動きが好きだと思う方へ偏っていた。
つまり、「人間の好き嫌い」ということさえ、「目線の情報」があれば、本人の意思表示よりも先に、第三者がその人物の選択、すなわち「未来」を確定的に予測することが出来る。
・アイオワギャンブリング課題
被験者には、A~Dの4つの山札からカードを引くという疑似ギャンブルゲームをしてもらう。
このとき、被験者には伝えていないが、AとBはハイリスクハイリターン、90%で+100ドル、10%で-1250ドル。
CとDはローリスクローリターン、90%で+50ドル、10%で-250ドルである。
すなわち、被験者が総合的に勝つ為には、「CとDからカードを引くべきである」ということに気づく必要がある。
→ 結果、80回辺りで「A,Bは危険で、C,Dは安全」ということが意識レベルで分かるようになる。
さらに、50回辺りから「勘」レベルで、 「A,Bは危険で、C,Dは安全」 というのが、分かってきていたということが判明した。
ここで面白いのは、実際にA,Bからカードを引く回数が減ったのは40回付近であり、「勘」よりも実際の行動の方が早かったこと。
更に、この課題時における手から出る精神性発汗(いわゆる、手に汗握る)を記録したところ、20回辺りの段階で、A,Bの山札を引いているときの方が、C,Dより有意に汗の量が多くなっていた。
→ すなわち、意識より勘が早く、勘より行動が早く、行動よりも身体(精神性発汗)が早かったのである。
意識は身体からの無意識の声を拾い上げて、最終的に「C,Dを選択する」という意志を発生させたのだ。
・意識は万物にある(本書における重要な考え)
①枯葉が落ちる。②ナメクジが光と逆方向に這う。③猫が顔を洗う。④あなたが本を読む。
意志があるのはどこからだろうか?
多くの人は「人間・猫 → 意志がある」「ナメクジ → 何とも言えない」「枯葉 → 意志がない」と判断するのではないだろうか。
とはいえ、それは人間の恣意的な判断である。
この世界の物理法則はビッグバンと同時に誕生した。不変の法則である。
意志や意識も物理法則の中で説明可能であるならば、世界の始まりから存在していたはずだ。
このように考えると、枯葉が落ちる行為にも何らかの意志や意識の法則が成り立つのではないだろうか?
意識とはグラデーション的なものであり、情報の変換の複雑さの違いでしかないのではないだろうか?
意志や意識が脳に関係していると考えるのはやめよう。意識は万物に存在する。
・1章のまとめ
人間には自由意思はない。世界は事前に全てが決まっている。
環境との相互作用によって、その都度人間は自動的に反応行動しているだけである。
意志とは幻影である。
意識や意志にそれを統一的に説明できる自然法則があるとすれば、それは物理法則の始まりから存在するべきであり、人間に特有のものではない。
だから、意識とは1か0かで存在するものではなく、レベルにグラデーションがあり、万物が意識を持っているはずである。
ただし、それによって未来が変化するようなものではなく、世界は全てが決まっている。
この考えを「心理学決定論」と呼ぶ。
–
2章 暴走する脳は自分の意志では止められない
・犯罪の責任は脳の状態に因る
幼児は脳が未熟であり、アルツハイマー病の患者の脳は正常とは呼べない。
→ 犯罪の責任は問われない、少なくとも問われにくくなっている。
暗黙的に「脳が正常であること」が大人(社会の構成員)として求められる。
・前向性健忘症:ヘンリー・モレゾン
彼は身に起こったことを長い間記憶できない。5分前に自分が何をしようとしていたのか思い出せない。
彼が犯罪を犯したとしても、一般人と同じだけの法的責任を持たせることはできないだろう。酌量の余地がある。
・前頭葉を損傷:フィニアス・ゲージ
「良き人物で有能」という評判であったゲージは、事故により鉄パイプが脳を貫通してしまう。
一命は取り留めたが、前頭葉を大きく損傷し、「嫌で無能なやつ」と評価されるようになってしまった。
・クレプトマニア
止められない万引き常習犯は「脳の病気」であることが分かっている。お金があっても万引きをしてしまうのだ。
・罪を憎んで人を憎まず?
現在では「精神異常ではないとされた犯罪者」でも、未来の進歩した技術で脳を見れば、「脳に何らかの異常があった」と判断される日が、殆どの犯罪においてあり得るかもしれない。
全ての犯罪において一対一で対応する脳の病気や異常が浮かび上がり、「犯罪を起こしてしまったのは意志では無く、やむを得ない脳の活動である」とされる時代が来るのかもしれない。
(とはいえ、この思想は危険極まりないものである。突き詰めれば、すべての犯罪行為に責任能力がないことになるからだ。
ここで著者はこのような立場を取って活動している訳ではない、ということに注意されたし。)
・「更生」は可能なのか
友達を作りたい、スポーツをしたい、といった欲求は社会的に肯定される。
しかし、動物を虐待したい、人を殺したい、といった欲求は社会的に「更生」の対象となる。
とはいえ、本能レベルでそれを矯正することはできるのだろうか?
人間はDNAを後天的に変えることはできない。高身長の人間を小さくすることはできるのだろうか?
「サイコパス」と呼ばれる人々は、社会で失敗を重ねることによって「優しく見える」行動パターンを身に着けていくという事例が確認されている。
とはいえ、これが本当の意味で「倫理」を身に着けたのか?という問いには疑問が残る。
・性犯罪者と脳
性犯罪は再犯率が極めて高い。脳がそれを否応なく求めるからだ。
特に、小児性愛者には特有の脳活動、脳の特徴があることが報告されている。
サートリウスらの2008年の実験報告では、男児愛の被験者は、男児を見ると感情に関わる脳部位である偏桃体が一般の被験者に比べて大きく活動する事が報告された。
ここで重要なのは、この脳活動は「意志でどうこうできるものではなく、自然とそうなってしまう」ということである。
・矯正と強制はどこまで許されるのだろうか?
小児性愛や動物虐待に対する補正方法は存在する。それは嗜好する映像を見せると同時に、不快な臭いや電気ショックを与えるというものである。
更に、危険なDNA配列(素質)を持っている人物から、子供を作る権利を奪うという方法もあり得る。
しかし、これは歴史的な矯正不妊治療や優生学、ナチスによるホロコーストと同じ轍を踏むことになるだろう。
身体の障害は罪ではない。生まれつき手や足がない人々にも平等にチャンスのある社会を作るべきだ。
ではなぜ、脳の異常は罪としてつまはじきにされるのか?「脳の障害」に対して、社会的に矯正のチャンスを無償で施す必要があるのではないだろうか?
・脳の暴走はどこまでが自己責任なのか?
子供を虐待する親の8割以上は、子供の頃に自身の親から虐待を受けていたというデータがある。
虐待は連鎖することが多くある。それは、虐待によって脳に不可逆的な損傷のようなものが生じるからだ。
虐待をする親は、どこまで自己責任で、どこまで自分の意志なのだろうか。
万引き常習犯や、アルコールやギャンブル依存症も、自分の意志を越えた脳の暴走である。
もちろん、罪は罰しなければ社会は成り立たない。けれども、意思の力ではどうにもならないこともある。
・AIによる犯罪予測
意志は幻影であり、行動をコントロールできるような力はない。外界からの刺激に対して、意思で抗うことはできず、自動的に身体が反応してしまう。
罪と自由意志はあやふやな関係だ。
タバコ依存症に対してはケアが行われているが、小児性愛や動物虐待に対する欲求をケアする方法はないのだろうか。
アメリカでは、AIによる犯罪予測が導入し始められている。
「人間には自由意志が存在せず、全て事前に決まっている」とするならば、AIによる予測こそがまさしく正解である。
しかし、現状の法治国家、自由意志を基盤とした社会システムにおいて、多くの人々にとって、AIによる管理社会は恐怖に感じるようだ。
心理学決定論やラプラスの悪魔からの立場からすれば、情報さえ十分に集まれば、人間の行動や犯罪は予測可能である。
・サイコパスの存在
サイコパスとは、強すぎる合理性、論理性を有する一方で、人間的な情緒性が欠落している存在を指す。
彼らは実社会で成功している者も多い。デイトレーダー・裁判官・弁護士・外科医・大学教授などはサイコパスの比率が高いとされている。
フェイスブックの創始者、マーク・ザッカーバーグ氏や、アップルの創始者である、スティーブ・ジョブズ氏にもサイコパス気質が見られる。
サイコパスの偏桃体は、正常者のそれよりも体積が18%低下しているという。
これは恐怖感情の低下と関連していると予想されている。
更に、極度の虚言癖者の前頭葉皮質は、正常者のそれよりも体積が22%増加しているという。
これは「相手の心を読む」「思考力」と関係していると言われており、サイコパスが他者をどう騙すか?という思考を一般人以上に判断していることが伺える。
とはいえ、なぜサイコパス気質は人類の進化の中で滅亡しなかったのか?
人類の長い歴史を見ると、犯罪を犯さない範疇で、脳に強い個性を持つある種の異常者たちが、人類を新しい地平に導いてきたとも考えられる。
・少数派の人々を社会に内包する仕組み
世界的に確認される「シャーマン」の存在は、すべてに当てはまるわけではないが、精神障害者を救う社会的な仕組みであった可能性がある。
彼らの異常行動を神との交信と捉えて、社会的な人物として評価する。これは精神障害者による犯罪を抑止していた部分があるかもしれない。
現代においては、このような仕組みを完全に失っているといえる。
・「無敵の人」と「悪人正機説」
八つ墓村のモデルとなった津山30人殺し。加藤智大による秋葉原殺傷事件。そして、相模原障害者施設殺傷事件。
彼らの脳や精神を治療・ケアすることで、抑止や予防をすることは可能だったのではないだろうか。
映画『JOKER』が大ヒットしたが、主人公は虐待による精神疾患を明らかに負っている。
こういった「無敵の人」に対しても、治療を無償で提供できるような社会システムを構築する事が求められている。
「我々に自由意志はあるのか?」という疑問が、脳から犯罪を考えることでも再度浮かび上がる。
我々は、環境と身体の相互作用によって生じる脳内活動という不可避で圧倒的な人間を操作する力の奴隷なのだ。
浄土真宗の開祖、親鸞は「善人であっても往生を遂げる(極楽浄土にいける)という、であれば悪人が往生を遂げるのは言うまでもないことである」と述べた。
ここまで読んだ人ならば、「脳に異常があり、犯罪を否応なく犯してしまい、社会からつまはじきにされ、更には罰として殺されてしまう者」に対して、悪人正機説の意味が強く感じられるのではないだろうか。
(繰り返し注意するが、著者には犯罪を擁護する意図は絶対にないので、誤解されないように注意されたし)
–
3章 AI
・AIと意識
AIは我々が存命中にも意識を持つだろう。しかし、それがどういう仕組みで意識を持っているのかについては、人間は分からないままであるはずだ。
・AIのブラックボックス
将棋AIのポナンザは名人を破るほどの実力を持つ。
そのアルゴリズムは「ポナンザ同士を700万回対局させて、ベストな一手を選択する」というものであるが、開発者にとっても「なぜその一手を選択するのか?」ということは、もはや分からない。
これがAIのブラックボックス問題である。
・脳のブラックボックス
脳の神経細胞(ニューロン)1つの仕組みに関しては、十分に解明されている。
しかし、それらが1000億のオーダーで集まった時に生じる「心」については、どうしてそれが生まれるのか、何もわかっていない。
・ハードプロブレム
脳科学・神経哲学における、現代の科学においても歯の立たない難問。1995年に、デビット・チャーマーズにより提唱された。
「私とは何か?」「モノから心が生まれるのはなぜか?」「意識とは何か?」など…。
・唯物論と唯心論の溝
脳科学者たちは唯物論(心と物質が同一次元の存在として語れる、そもそもこの世界は絶対的な物理的存在のみで構成される、という哲学的立場)を前提に話を進めてきた。
しかし、「私にとっての赤の赤さ」や「恋人を思う時の気持ち」は言語や数式の形に変換できない。
つまり、脳細胞で心を説明するのならば、唯物論と唯心論の溝を埋める覚悟が必要になるのである。
・空海の教え
非常に聡明であったとされる空海は、密教の教えについて、最終的には言語化ではなく、仏像や仏画を通じて身に着けるしかない、という言説を残している。
空海はハードプロブレムに挑み、言語化ではなく、「アート」という方法を選択したのではないだろうか。
・クオリア
自分自身にしかアクセスできない感覚のこと。自分にとっての赤が、他人の赤と同じとは限らない。
クオリアは命題に変換できないと思われる。数式や言語には置き換えられない。
何時間かけても、何万字かけても、「自分の感じている赤」を他者に100%伝えることはできない。
小説とは、クオリアの言語化に挑戦している人間の営みであるとも言える。
・哲学的ゾンビ
AIが本当の意味で意識や意思を持っているかどうかは分からない。
それどころか、自分以外の人間にさえも、心が本当にあるのかどうかは分からない。(哲学的ゾンビの問題)
人間は自分以外の存在に心を見出すとしても、それはあくまでも「投影する心」とでもいうべきものに過ぎないのだ。
・AIと人間の相似形
AIが意識を持つ事は確実だと思う。
しかし、「ブラックボックスの問題」「唯物論と唯心論の統合問題」を超克できないかぎり、AIがなぜ意識を持つのか?ということは理解できないだろう。
AIと人間の行動の相似形は、膨大な情報が与えられ、その帰結として、1つの行動が選択されるということである。
我々は、膨大な情報のやりとり全てを理解することは不可能である。そのため、行動には「自由意志」という幻影が生じる。
そして、それはAIでは「ブラックボックス」と言われるのだ。
我々の行動も、AIの選択も、膨大な情報から一意的に導かれているに過ぎないのだが、その過程が理解不能であるために、我々は自由という錯覚を感じてしまうだけなのだ。
–
4章 そもそも人間の知っている世界とは?
・知覚世界と物理世界
我々が想定している世界とは、知覚によってのみ体感することが可能な、実にあやふやなものである。
人間は五感によって世界を切り取っているにすぎない。
人間と犬では、視覚能力によって、見えている世界が違う。
(光→リンゴ[物理世界]→反射した光)→(眼→脳[知覚世界])
・あやふやな人間の知覚
錯覚や錯視を見ると、動いていない絵が動いて見えることがある。
これは物理世界と知覚世界の乖離を端的に表しているだろう。知覚世界は本質的に「歪んでいる」のだ。
さらに、意識に上らないほどの弱い刺激が行動に影響を及ぼす事例も確認されている。
これらは「プライミング効果」や「サブリミナル効果」などと呼ばれる。
例えば、流れていたCMを意識していなくても、数日後にスーパーで、なんとなくその商品を手に取ってしまうことがあるだろう。
世界の見え方や捉え方は、それ以前の(環境からの)刺激の影響を多分に受けているのである。
・”神様”と人間
もし、物理世界を余すことなく知覚できる者がいるとすれば、それは「神様」と呼ばれる者だろう。
人間の行動は環境からの刺激とその履歴によって決まっている。
その環境、外界とは我々の脳内で知覚されたものであり、その外界は五感と言う窓を通してしか見ることができない。
–
5章 何が現実か? 唯識、夢、VR、二次元
・唯識
前章の知覚について考えると、世界とは結局のところ自分自身の脳が作ったものでしかない。
世界とは自分であり、自分こそが神であり、全てなのだ。この思想に徹したのが仏教における「唯識」である。
・般若経
この世のあらゆる存在には実体がない。「空」の思想。この世は虚無である。
・唯識無境と唯識所変
唯識は2つの言葉で簡単に説明できる。
唯識無境 → 外界には何も存在しない。
唯識所変 → この世は、全て「阿頼耶識」から作られたものである。
この世の全ては、阿頼耶識という自分自身の中の不思議な存在が作り上げ、自分自身に体験させているだけなのだ。
・二次元の嫁
外界(物理世界)が絶対的に存在すると考えれば、アニメは空想のものであり、二次元の嫁は虚しいものとされる。
しかし、知覚世界こそがリアル、全ては自分自身の脳が作り出しているだけであると考えれば、二次元の嫁はリアルなのである。
・仏教と心理学決定論
世界の全ては自身の阿頼耶識が生み出している。とすれば、仏教において、世界は事前に決定していると言えるだろう。
唯識とは、心理学決定論を仏教的に示唆している事例である。
「この世や自身の行動は事前に全て決まっている。しかも、自分で決めている」という真実に到達させないために、自由意志という錯覚、つまり人間の業がもたらされるのかもしれない。
悟りを開くとは、心理学決定論に気づくところから始まるのかもしれない。
–
6章 量子論
・二重スリット実験
量子論とは、一言で言えば「観察することで世界が初めて決まる」ということである。
二重スリット実験では、光子は観察されないときは、波として振舞うが、観察されると粒子として振舞う。
・シュレーディンガーの猫
粒子は「重なり合った状態」で存在しており、観察することによって、ある状態に収束する。
量子論という最新の科学においても、並行宇宙のような考え方が実際に起こりうることを示している。
・この世界は神によるVRゲーム?
ゲームでは、主人公が存在しているフィールドや人物のみが描写される。
例えば、『龍が如く』で主人公が新宿にいるときは、沖縄のフィールドは存在していない。
光速とは、この世界(神が使っているゲーミング・マシン)の処理速度の限界を示しているのではないだろうか?
我々はVRゲームの主人公であり、1つ1つの行動は、自由意志で決めていると思い込んでいたとしても、実は神と言うプレーヤーの意志によって決まっているのかもしれない。
神とは、世界と自己の相互作用であり、それによって、事前に、そして自動的に自身の行動は決定されているのかもしれない。
ただし、その神は「無自覚な神としての自分」である可能性もある。(「唯識」の章より)
–
7章 意識の科学の歴史
・NCC(ニューラル・コリレイツ・オブ・コンシャスネス)
「意識に上る知覚に対応した十分なニューロンの活動とメカニズムの最小単位」の略。
これは「意識体験に対応した神経活動を適切に記述していけば、意識を脳活動から説明できる」という説である。これは唯物論を前提としている。
・両眼視野闘争
意識に上っている色に対応して、部位による脳活動が生じていることが分かった。
→ NCCを支持する実験結果。
・TMS(経頭蓋磁気刺激法)
強い磁気を頭蓋骨の外側から脳に与える。特定の脳領域に磁気を当てると、その部位の活動に変化がもたらされる(抑制されるなど)。
例えば、TMSによって言語野の活動を抑制すると、絵が上手くなるという結果が報告されている。
これは、一時的に言語の機能を落とすことによって、疑似的なサヴァン症候群の特徴を引き起こしているのではないだろうか。
サヴァン症候群とは、芸術や数学など特定の分野において、圧倒的な能力を発揮する一方で、全体的な脳の処理能力が一般に満たないという脳の個性を持った人々を指す。
・ハードプロブレムの壁
これらの実験結果は脳科学・心理学において、躍進的な発見をもたらしたように思える。
しかし、やはりハードプロブレムの問題は解けなかった。
機能と場所の対応付けができたとしても、「どのようにそれをしているのか?」の説明にはならないのだ。
機能は場所では説明できない。
–
8章 意識の正体
・著者による「意識」の仮説
意識とは、結局のところ「情報」である。
・IIT
神経心理学者、ジュリオ・トノーニによって提唱された学説。
意識とは、情報を統合することと深く関連しており、1+1を2以上にするような、情報を解釈するためのアルゴリズムが「意識」なのではないか?
例えば、「赤い」+「いい匂い」という情報に対して、「リンゴである」という解釈を与えるような。
・意識のレベル
人間は高度な情報の解釈や統合が可能である。意識には、情報の統合レベルに沿った階層が存在する。
例えば、光と逆方向に這うナメクジにも、そのレベルの意識や情報の解釈は存在する。
ここで、情報そのものが意識であると著者は提唱する。
・「情報」とは?
① 実情についての知らせ
② 判断行動の上で必要な知識
③ 一定の約束に基づいて人間が数字・音声などの信号に与えた意味や内容
辞書による定義と、著者による「情報」の意味は非常に合致している。
・永遠の命
意識が情報ならば、コンピュータに移植することだって可能である。
光の速度で移動させることだって可能になるだろう。
情報をサーバーにアップロードしておけば永遠の命だって得られるはずだ。
人間の意識が、身体や脳に縛られなくなる時代も来るかもしれない。
・万物に意識が存在する
意識が情報であるならば、万物にそれに応じた意識があることになる。
全ての情報が意識であるならば、ビッグバンから意識があると言える。
AIにはAIの意識、山には山の意識、海には海の意識が存在する。
まさに曼荼羅の世界観である。
・0と1に還元される意識
どんな情報も、0と1で表現する事が可能であり、それならば、意識も0/1レベルに還元することができると言える。
自分の意志で選んだと思われる行動も、結局は0/1レベルまで還元される。
全ては事前に決まっていた情報の変動であり、意識は情報にすぎない。
情報にはレベルがあり、人間の意識の情報レベルは極めて高いが、それも結局はなんらかの自然法則に基づいた振る舞いでしかないのである。
意識がただの情報(但し、複雑極まりない情報ではあるが)だと考えれば、心理学決定論の尤もらしさを信じられるようになるのではないか。
・脳科学の限界を超克するためのアプローチ
「結局のところ、脳と心に何らかの一対一の対応があり、その対応関係は、今のところ人間には分からない」というのが現状である。
この問題を超克するためには「芸術」と「哲学」というアプローチが考えられる。
–
9章 ベルクソン哲学にヒントが!
・ベルクソンの主張
「脳という物体のある時の状態は、その生体の行動の原因ではあっても、その生体の心理的内容を表してはいない。モノの知覚がどこにあるか? 無理にでも言えと言われるなら、脳の中にではなく、むしろ、対象のうちにあるのだ」
ベルクソンは「脳=心」ではないと言う。さらに、記憶は脳の中に保存されている訳でも無いという。
なぜなら物質は表象を表現できないから。脳細胞では、記憶を説明できないのだ。
ベルクソンは、唯心論、唯識の流れと繋がる哲学者である。
・ベルクソンによる時間
時間とはあってないような、人間による恣意的なものである。例えば、ナメクジと人間の時間感覚は異なるはずだ。
・ベルクソンによる「脳と心」の比喩
指揮者とオーケストラと楽曲、これらは指揮者(脳)、オーケストラ(身体)、楽曲(心)と対応する。
楽曲(心)の本質を知るためには、オーケストラ(身体)の構造を調べなければならない、指揮者(脳)をいくら調べても、身体を調べる時のように、本質的な発見や理解は得られない。
指揮者が主役に見えても、そこに本質は無い。
・ベルクソンによる「映写機」の比喩
人生とは、映写機のようなものである。
「今の連続」と「持続」によって、1コマのフィルムが、物語として意味を持ち始め、時間の流れが生まれる。
しかし、実は過去も未来も初めから映写機の中にある。決定論再びである。
→ この持続こそ、意識の本質であり、ビッグバン以降に生まれた意識の自然法則であると、著者は考える。
–
10章 ベクションと心理学決定論
・非風非幡(禅問答)
あるお坊さんが風にはためくのぼりを見て、「のぼりが動いている」と言った。
別のお坊さんは、「いや、風が動いている」と言った。
また別のお坊さんが「動いているのは、のぼりでも風でもなく、あなた方の心だ」と言った。
世界とは私の心のことなのだと。
・ベクションとは?
「実際には、自分は動いていないのに、自分の身体が動いていると感じる錯覚のこと」
駅で停車中の電車に乗っているとき、逆路線の電車が動き始めると、「あれ!自分の電車が動いた!?」と感じる錯覚がベクションである。
自分の電車が動いたのか?対面する電車が動いたのか?非風非幡である。
結局動いているのは私たちの心なのだ。
著者は、ベクションの専門家であり、どういう条件で、ベクションが強く起こるか?弱く起こるか?をあらゆるケースで実験している。
・ベクションと自由意志の相似形
我々は「自分が動いている」と思い込んでいても、それはベクションという錯覚で、実際には自分は動いていないことがあり得る。
これと同じで、「自分で人生の行動を選んでいる」と思い込んだとしても、その実、世界と言う環境から自分の行動が必然的に引き起こされているだけなのかもしれない。
–
11章 マルクス・ガブリエルの新実在論
・哲学者、ガブリエルによる問いかけ
私はどこにいるだろうか? → 東京です。
東京はどこにある? → 地球です。
地球はどこにある? → 宇宙です。
宇宙はどこにある? → 現実とされるこの世界に??
現実とされるこの世界はどこにある? → 私の意識でしようか???
…ガブリエルは言う。私とは宇宙の中に含まれる存在(部分集合)であり、同時に宇宙は私の中に含まれる存在(部分集合)でもある。
宇宙と私はどちらが大きいのだろうか?
ガブリエルにとって、存在する、実在するのとは以下の定義になる。
「存在する = なんらかの意味の場に現れる = 実在」
つまり、自分の親も、兄弟も、ドラえもんも、二次元の嫁も、全ては実在する。
ただし、ガブリエルの発想で面白いのは「私とあなたの『共通した場としての世界』はない!」というところだ。
唯識をバージョンアップさせた、多元論的な解釈である。
・ガブリエルによる「生きる意味」
「生きる意味とは、生きることに他ならない。つきることのない意味に取り組み続けること。必要のない苦しみや不幸が存在するのは事実だ。それでも、無限の意味の場に存在し続けるだけ」
・平行世界
自分の世界こそが全ての世界なのだ。人の数だけ、独立した平行な宇宙(世界)が成立してる。
ただし、そうなると意識が認められる全ての存在の数だけ、並行世界が存在していることになる。
この辺りが腑に落ちない人もいるだろう。
結局、人間がたどり着ける結論、世界の本質とは、ぼんやりとした霧がかかっているのかもしれない。
世界は自分が作っているという事実に人間は「デフォルト設定」では気づけない。やはり、神に試されているのだろうか?
–
12章 アートによる試み
・直感に訴えるという方法
言語では表現できないことをどうすれば人に伝えられるのか? → アート
空海が曼荼羅を書かせたことに通じる技法である。
・絵画の流れ
15世紀:写実性の高さが重視される
19世紀:印象派、物理世界よりも主観世界を重視する
20世紀:キュビズム、主観世界・脳の世界を二次元のキャンバスに再現する
・デュシャンの「泉」
既製品の便器に「泉」と名付けたもの。
アートのアート性は物体に縛られず、「概念」や「考え方」にこそ本質があるのではないだろうか。
つまり、アートの本質は人間の思考であり、表面的な物質は媒体に過ぎないという、発想の転換が起こったのである。
デュシャンは「情報こそが本質であり、外界に存在する箱、情報の乗り物にはさほど意義がない」ことを予知していたのではないだろうか?
・芸術は爆発だ
アートという方法を使えば、直感的に、多くの人に「体験」を与えることができる。
岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と言った。その爆発とは、脳の中で静かに激しく起こるものなのである。
太郎は土器に関する科学論文を発表するほど理知にとんだ人物でもあった。
知性と芸術性は同時に成しえるもの。いや、むしろ同義なのである。
人生の中で、どれだけ「爆発」を起こせるか?というのは非常に大事なことだ。
–
13章 Cutting Edge な時代を生きる
・この本の結論
「意識とは情報であり、生命とはその情報を増やすために配置された『なにかしか』(存在)である」
・カッティングエッジ → 最先端・過激 な時代を生きる
我々は、物体から離れて、情報として永遠にこの世界を漂い続ける権利を得始めている。
(例:AIによる故人の再現)
漫画『ワンピース』では「人はいつ死ぬと思う?」「人に忘れ去られたときさ」というセリフが存在する。
命の本質とは、やはり「情報」なのだろう。
–
まとめ
自由意志は存在しない。人間は環境との相互作用によって、刺激に対して自動で行動を紡ぎ出されているような存在である。
人間はそもそも物理世界の断片にしか触れることができず、もし存在するのなら、物理世界の全容を知っているのは神(超越的存在)のみである。
世界とは、自分の心があるのみで、神とは自分である可能性がある。
意識とは、情報とその統合のことであり、万物に様々なレベルの意識が宿っている。
意識を記述できるような物理法則が存在するのならば、それはビッグバンの始まりから存在するはずであり、それが0か1の存在ではなく、グラデーションを持った何かではないかと示唆される。
犬や猫は言うまでもなく、枯葉にさえ、なんらかの意識は宿っているはずだ。
ベルクソン哲学に基づいても、今を持続させる不思議な力こそが、意識の自然法則なのかもしれない。
そして、その考え方は、マルクス・ガブリエルの新実在論の形で、より現代的にアップデートされたと言える。
…とはいえ、心理学決定論を信じることは世界の美しさを減らすだろうか?
退廃的に生きることや、犯罪行為を擁護するものなのだろうか?
プロレスは「シナリオや結末が決まっている」と噂されることがある。
しかし、リングの上で躍動する選手たちの輝きは本物であるはずだ。
人生はプロレスである。
「事前に全てのことが決まっているとしても、一生懸命の生きることは美しい」と言えるだろう。