「人生は配られたカードで勝負するしかないのさ」問題を考える

ある犬はこう言った……。

You play with the cards you’re dealt. whatever that means. (配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどういう意味であれ)」と。

 

僕らは手札を選べない。

去年に親ガチャという言葉が流行ったように、僕らの人生は生まれや才能、与えられた環境などによって大きく決定されてしまう。

これを甘えだと非難する人もいるだろうが、それは発言者がその存在を「叩いてもいい」と考えているから出てくる発言なのである。

例えば、野良猫が寒さや飢え、病気によって長生きできないのは、その野良猫の甘えや自己責任なのだろうか?

殆どの人はそうではないと答えるはずだが、これが「貧乏な家庭に生まれた見た目の悪いオッサン」になると、なぜか一気に叩いてもいい対象となる。

人間には可愛いものを守ろうとする本能があるが、見た目で全てを判断していてはいけない。理性的な判断を行っていく必要があるのだ。

 

……少し話が逸れてしまったが、白い犬の言う通り、僕らは配られたカードで勝負するしかない。

「実家が太い」「容姿が優れている」「勉強ができる」「運動神経がいい」と言った強い手札を持っている人もいれば、その逆でブタ(役無し)のような手札の人間もいる。

ここで言う「カードの勝負」とは、上記のようにポーカーを例えているのだろう。

しかし、今回は拡大解釈として、「トレーディングカードゲーム(TCG)」のエッセンスを加えてみる。

いわゆる、「遊戯王」や「デュエルマスターズ」、「ポケモンカード」などだ。

役に加えて、カードの効果を発動することによって、相手と戦ったり、人生を攻略していくという訳である。

そして、ここで明確にしておきたいのは「意思決定(プレイング)」と「カードの効果」は別だということだ。

例えば、カードを発動する為には「カードを発動させる為のカード」が必要だった場合、「『カードを発動させる為のカード』を発動させる為のカード」が必要になってしまう。

これでは無限後退になってしまい、絶対にカードを使うことができなくなってしまうのである。

よって、ここでは「プレイヤーがカードを使うことは自由意志で決定できる」という前提を決めておく。

「人間は遺伝子と環境によって人生が決定されてしまう」という運命論に基づけば、カードのプレイング自体が「配られたカード」なのかもしれないが、少なくともここの議論においては、自由意志でゲームを行うという解釈で進めていきたい。

 

まず、順当に強い手札やデッキを引き当てたのなら、それで戦っていけばいい。

これは当たり前の話であるし、正攻法についてはこんなブログを参考にしない方がいいだろう。

ここで語りたいのは、手札に恵まれなかったり、マイナス効果カードを所持してしまった者の為に送る、搦め手であり、邪道な立ち回りについてである。

 

① ハッタリをかます

これは邪道の中では、王道の手段かもしれない。

例え手札が弱くても、強そうに見せかけて相手を降ろすのだ。

承太郎もブタの手札でダービー兄を倒した訳である。

最近見かけたこんなツイートが面白かった。

「吉野家でアルバイトしていました」をカッコ良く言うと「年商2000億規模の上場企業で店舗運用に関わっていました」になる。特にTwitterのプロフにはモザイクがかかっていることが多いです。

結局、人間は相手の地位や肩書によって判断してしまう部分が大きい。

そういう意味では自分を強く見せるというのは非常に有効な手段であろう。

しかし、ここで気を付けたいのは「人生はポーカーとは違い、一度きりの勝負ではない」ということである。

ハッタリをかましたのなら、ゲームが終わる(死ぬ)までその影響が及ぶ。

嘘をついたのなら、その後は整合性を気にかけなければならないし、一度相手に「あれ? こいつの手札やデッキって……実は弱くね?」とバレてしまったのなら、信用を失ったり、狙い目にされることもあるだろう。

そのような理由から、この作戦は、それなりの頭脳と胆力がある者にしかオススメできない。

 

② 手数で勝負する

2021年、地球の人口は約78億人になった。

こうして考えてみれば、自分より優れた能力を持った人間などいくらでもいる。

ここでまたツイートを引用してみよう。

「インターネットで検索すれば、自分と同じ年齢なのにすごい人がいくらでも見つかる時代になった。ここで、そうはなれない自分に疲れるのである。生まれたときに自由のチケットを一方的に渡してきて、それを死ぬまでに使い切ることを要求する社会が嫌になるのだ。」(『〈普遍性〉をつくる哲学』P274)

俗っぽい言い方をすれば、自分の「上位互換」がたくさんいるということである。

昔は、「村一番の○○」でよかったし、それをアイデンティティに生きていくことができた。

しかし、このように自分の上位互換を多く観測することができるようになってしまった世の中では、自分の存在意義について考えてしまうのも当たり前のことである。

僕が考えるのは「手数を増やし、独自のコンボを組んで、勝負していくしかない」ということだ。

何か特定の部門において、そのトップクラスを目指すことは非常に厳しい。

例えば、文章でプロになることや、料理でプロになれるのは一握りだろう。

だが、「料理が上手くて、そのレシピや味わいを上手く文章に表現できる人ランキング」だったら、トップクラスで戦っていけるかもしれない。

更に、「カレー料理家」などの専門性を加えたら、敷居はどんどん下がっていくはずだ。

器用貧乏でいい。どんどん手数を増やして、コンボを組んでいく。

これが現代において、上位互換と戦っていく為の方法なのではないだろうか。

その為にも、色んなことに挑戦してみるというのは、非常に大切なことだと思う。

思わぬものに、天賦の才があるかもしれないし、向いてなかったら、ただやめればいいだけの話である。

 

③ 「○○を○えるカード」が一番大切

ここで、「一番大切なカードとはなんだろう?」と考えてみる。

「レアカード(飛び抜けた生まれや才能)」か? それとも「手札やデッキの数」か?

いや、そうではない。

僕が一番大切なカードだと思うのは、「カードを拾えるカード」である。

インターネットをいつも見ている人は当たり前のように思うかもしれないが、「分からないことをインターネットで自分で調べてみる」ができない人は意外に多い。

「そんなのググれば一発じゃないか」ということさえ調べようとしない人はそれなりにいるものだ。

これまでの人類が築いてきた知識や、自分にとって有益な情報や考え方はいくらでも本やインターネットで拾える。

具体的に言ってしまえば、「必要な情報を調べることができる能力」が大きく人生に影響することは間違いないだろう。

生まれ持った固有カードを後天的にゲットするのはほぼ不可能だが、汎用カードであったらいくらでも拾えるのだ。

(まあ、近年では量産型アフィサイトや、怪しい情報商材によって、適切な情報に辿り着くのが難しかったり、トラップも増加しているのかもしれないが……)

一度手にしてしまえば、「カードを拾うカード」は消費されない永続カードである。

少なくとも、この文章を読んでいるということは、そういった資質はあるのではないだろうか。

どんどん有益そうなカードは拾ってみよう。これは「② 手数で勝負する」にも関係する話だ。

 

ここからは「メタ」な言及になる。

④ カードバトルをやめる

僕たちはなぜ戦っているのだろう?

そもそも、戦う必要があるのだろうか?

いつの間にか、この世に生まれて、手にはカードが握られていた。

周りの皆もカードで戦っているものだから、僕たちは「生まれたからにはカードで戦うべき」だと思い込んできてしまった。

けれども、本当はデュエルする必要なんてどこにもないんじゃないだろうか?

闇のデュエルのごとく、殺されてしまったり、自ら命を絶ってしまう人も少なくない。

そんな危ないゲーム、冷静になって考えてみたら、なるべく参加しない方がいいんじゃないだろうか?

もちろん、生まれてしまったからには逃れられないデュエルはある。

息をしているだけでも腹は減るし、真冬に素っ裸では生きていけない。

それでも、「なるべくバトルを避ける」というスタンスは、1つの回答になり得るのではないか。

そんな風に考えることも少なくない。

もうカードバトルに熱中するのは卒業してみよう!

 

⑤ 本当の勝利条件とは……

いや、それ以前に、僕たちは大きな勘違いをしていたのかもしれない。

このゲームは「手札で相手を倒すこと」が勝利条件だと思われてきた。

しかし、頑張って勝ってみても、次の対戦相手が現れたり、新たな試練がやってくるだけである。

こんなゲームがいつまで続くのだろう? もう飽きてしまったり、嫌になってしまう人もいるはずだ。

それにこんな言葉もある。

「人生は勝ち目の無い賭博のようなもの。誰もが最後はそのゲームの権利を失うように出来ている」のだと……。

もしかしたら、これはポーカーやカードゲームではなかったのかもしれない。

そう、実は、ババ抜きのようなゲーム。

「自分のカードを全て捨てることが本当の勝利条件」だったのだ!

カードがなければ、戦うこともないし、くだらないゲームに一喜一憂することもない。

これがまさしく「上がり」じゃないか、と。

僕たちはただ、手札を捨てればよかっただけの話だったのである……。

(ただし、これは「死ね」と言っている訳ではない。仏教的な考え方に近い)

 

まとめ

「人生は配られたカードで勝負するしかないのさ」問題について、自分が考えたのはこのぐらいだろうか。

①②③は実践的な内容で、④⑤はメタ言及・仏教的な考えだ。少しでも何か参考になったら幸いである。

(ちなみに僕は「哲学としての仏教」が好きなだけであり、特定の宗教に勧誘するような意図は全くありません)

 

最後に補足をして終わりにしよう。

こういった「人生の立ち回りをポーカーやカードゲームに考えてみる」というのは面白い考え方かもしれない。

自分の感覚にしっくり来れば、人生を上手く扱うこともできるだろう。

しかし、この世界というのは「解釈」による影響が非常に大きい。

同じ風景であっても、本人の解釈によって見えてくる景色は大きく異なるはずだ。

例えば、同じ駅だって、その駅をいつも使っているサラリーマンからしてみれば、憂鬱な通勤の象徴かもしれないし、たまたまそこに来た旅行者にとってはワクワクして輝いたものに見えるかもしれない。

もちろん、「この世界は僕たちの解釈によって作り出されていて、本当は何もないのだ」と極論じみたことを言う訳ではない。

一般的に考えれば、間違いなくそこに「物自体」は存在する。

しかし、それをポジティブに捉えたり、ネガティブに捉えるのは、個人の解釈に大きく依るのではないだろうか。

つまり、「この世界はカードゲームなんだ! 親ガチャなんだ!」と凝り固まった考えに傾倒するのは、あまりオススメしたくない。

「世界はもっと自由に解釈できる!」という意識は持ち合わせておくべきだと考えている。

タイトルとURLをコピーしました