ニートと実存(2023)

ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土、――こういう道を、たいていのときはすらすらと辿っている。ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる、すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてがはじまる。

アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』

ニートを経験したことがある人ならば分かるだろうが、ニートには「虚無感」が付きまとう。

思う存分に昼寝をしてみた。

思う存分にゲームをしてみた。

思う存分に1人旅をしてみた。

こういった物事が「楽しくない」わけではないのだ。

だが、なぜなのだろう。なにかが「虚しい」。

 

ここまで読んだ人は恐らくこう思うかもしれない。

「それは孤独が問題なのではないか」と。

そのような意見は表面的には正しい。

だが、本質を突いているわけではないと僕は思う。

「虚無感」の本質とはなにか。

それは自分の存在に根拠が存在しないことである。

 

そもそも、なぜ私は存在しているのか?

それは両親が存在していたからである。

では、なぜ両親が存在していたのか?

それは両親の親(祖父母)が存在していたからである。

こういった問いを繰り返していくと、結果的にはホモ・サピエンスがアフリカで誕生したことまでに遡るだろう。

そして、なぜ地球に生命が生まれたかと言えば、太陽系が存在していたからであり、なぜ太陽系が存在しているかと言えば、宇宙が存在していたからである。

……では、なぜ宇宙(世界)は存在しているのか?

それはビッグバンが起こったからだ、というのが教科書的な回答かもしれない。

だが、なぜビッグバンが起こったのか?

これはもはや誰にも分からない。少なくとも現代の科学では。

こんなとき一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の信者であれば、こう述べることができただろう。

「この世界は『神の一撃』によって生み出されたのだ」と。

だが、科学主義に囲まれて育った無神論者の現代人にとっては、絶対的な答えなど存在しない。

それ故に、僕たちは「不条理に」「偶然」「意味もなく」この世界に存在している。

これが虚無感の根源的な原因であると、僕は考えるわけだ。

 

例えば、あなたが神の存在を信じているならば、あなたの存在は「必然」であっただろう。

なぜなら、全ての人間は神の被造物であり、あなたも21世紀の日本に生まれるように、神があなたを創ったのだから。

そして、あなたに発生するイベントは全て「必然」であり、良いことも悪いことも、全て神の思し召しなのである。

その一方、無神論者の現代人には存在に根拠がない。

宇宙に投げ捨てられたように、ただ存在している。

それ故に、人々は自身の存在に根拠を求めるのではないか。

仕事をする、友達と遊ぶ、恋愛をする、家族を持つ……。

そういった社会の営みの中に身を投じることによって、自身の存在に「確からしさ」を抱くことができる。

人と人の繋がりを実感することによって、「ここに居ていいのだ」と確認することができる。

だが、それはあくまでミクロな視点でしかない。

宇宙開闢のマクロなスケールから僕らの存在を考えてみると、やはり僕らの存在は「偶然」なのである。

そして、そうした実存の痛み止めを持たない現代人、――すなわち、激しく「不条理」や「偶然性」に晒されているのが、ニートなのである。

 

以前に出したエッセイ集でも紹介したのだが、僕の好きな小説にサルトルの『嘔吐』というものがある。

簡単に紹介すると、この小説の主人公はロカンタンという名前の30歳独身男性のニートだ。

正確に言えば、貯金をかなり持っているので高等遊民と呼ぶべきなのかもしれないが、とにかく彼は仕事をせずに、図書館やカフェに通ったりして暮らしているわけである。

そんなロカンタンであるが、ある時、海辺で遊ぶ子供たちをまねて小石を手に取ったところ、突然に「気持ち悪く」なってしまう。

この「吐き気」は一体何なのか、そう思索するロカンタンの日記という形式で進んでいくのが『嘔吐』という小説だ。

核心的なネタバレをしてしまえば、ロカンタンの感じていた「吐き気」とは「偶然性」であった。

小石も、木の根も、自分自身も、全ては偶然に存在している。

「この私が現実に存在している」ということの不条理さ。

その非常にシリアスでグロテスクな実感が「吐き気」を呼び寄せていたのである。

――なぜ私は存在しているのか。

私は存在していなくてもよかったはずである。

――そして、なぜ世界は存在しているのか。

世界は存在していなくてもよかったはずである。

こうした「if」を考えてみると、自身の存在が強く「異常」であるように思えてこないだろうか。

 

更に述べておきたいのは、「なぜ『私』は『私』なのか?」ということである。

例えば、僕はマンモスを狩る原始人でもよかったはずだし、宇宙コロニーに住む未来人でもよかったはずである。

それなのに、なぜか21世紀の日本人であるのだ。

なぜ。なぜなのか。

繰り返しになるが、例えば、キリスト教を信仰している人であれば、「神がそのように私を創ったから」という結論になるだろう。

だが、僕のような現代人には根拠がない。

理不尽に、偶然に、僕は僕なのである。

 

そうした背景を踏まえて――こんなことを言うとニヒリスト(虚無主義者)だと批判されるだろうが――僕はこの世界に絶対的な意味はないと思っている。

絶対的に、宇宙の真理として、「~すべき」「~するべきではない」というルールは存在しないというのが、僕の立場だ。

もちろん、社会を営んでいく上でルールは立ち現れてくる。

「人を殺してはいけない」、なぜか。

それを許してしまったら、「ムカついたら殺してもいい」という無茶苦茶な無法地帯が誕生してしまうからだ(あなたも殺されるかもしれない)。

別に、こういった法律を無視してもいいと言っているわけではない。僕も殺されたくはないものだ。

だが、それでも、そこに「絶対性」はないだろう。

そして、現に殺人は「起こってしまっている」し、人を殺した者が急に消滅したり、突然落雷が落ちてくるような天罰を受けているわけでもないのだから。

 

なんだか議論が暗く、そして、救いようがないようになってきてしまった。

果たして、僕のようなニートはどうすればいいのだろう。

存在の根拠の不在に虚無感を抱き、生まれ持った身分を嘆き、人生に意味はないと考えながら生きていくしかないのだろうか?

いや、僕はそう思わない。

「偶然性」や「不条理」を深く見つめる立場だからこそ、得られるものがあるはずなのではないのか。

 

例えば、「僕」は「僕」であるが、もしかしたら「あなた」だったかもしれない。

それはサイコロの目のように、偶然決められてしまったものである。

こうした可能性を考えてみると、自身がどんな人間であった可能性……いや、どんな生物であった可能性もあるとは思わないだろうか。

大昔の原始人か。中世の農民か。近代の労働者か。

王族や資産家か。貧民や病人か。

ライオンか。ハトか。ミジンコか。

ありとあらゆる可能性が考えられる。

いや、それどころか輪廻転生的な考えを導入すれば、あらゆる生物の感覚を「体験してきた」し、「体感することになる」のかもしれない。

もしくは、「『私』には分からないだけ」で、「今現在も”全て”を体感している」可能性だってある!(これは流石にちょっとスピリチュアリティで想像力を膨らませすぎただろうか?)

ただ、こうしたシリアスな実感を伴う偶然性を通じて、他者への想像力を膨らませていくと、そこには「そういう決まりだからそうしましょう」という薄っぺらい道徳に依らない、本物の「思いやり」が立ち上がってくると思わないだろうか。

 

また、ニヒリストとしては「生きなければならない」というルールなどない。

今すぐ死んでしまっても構わないはずである。

しかし、少なくとも(僕を含めて)この世界に生きているニヒリストは「生きることにした」のだろう。

(「死ななくてはならない」というルールも存在しないのだから)

そして、この世界を生きていく以上は生理的な欲求が発生する。

食う。寝る。住む。

そうやって生きていくからには、どうしても他者との関りは発生するはずである。

たとえ、働いてなかったとしても、他者の作ったものを食べたり、利用することはあるだろう。

また、日常で店員と喋ったり、知り合いとインターネットで交流することもあるのではないか。

結局、いくらニートで孤独主義者を気取ってみても、生きていく以上は「社会の営み」の中に還っていくことになるのである。

 

別に、僕は「ニートはやっぱり社会に出て働きましょう」なんてことを言いたいわけではないのだ。

ただ、偶然性の道徳を備えた上で、「自分は他者に何ができるのか?」ということは考えてみてもいい。

むしろ、ニートやフリーターだからこそできることだってあるかもしれない。

ちょっとした気づきをツイートするとかでもいいじゃないか。

偶然や不条理を強く眺めてきたという経歴があるからこそ、実社会でユニークな立ち回りができるような気がするのだ。

 

また、これは自己批判も含めて敢えて強い言葉で言っておくが、自分のことをいつまでも「被害者」で「かわいそう」な「お客様感覚」で生きていると永遠に苦しむことになる。

結局は「私が!私が!」という感覚こそが苦しみを生み出しているに他ならないのだ。

ここで、この前見かけたちょっとしたツイートを紹介してみたい。

「ステージ上で恥ずかしがっている人は自分のことしか考えてない。プロはお客さんを楽しませることを意識しているから恥ずかしさがない(要約)」というものだ。

確かに、これは一理あるな、と思った。

この話を踏まえてみると、他者の幸福、すなわち利他について意識するほど、面白いことに「私が!私が!」という苦しみが消えていくという構造があるのではないか。

 

まとめつつ振り返ってみると、僕は「ニート・実存・偶然性」を通じて、現代に薄れている「宗教性」を復活させたかったのかもしれない。

もちろん、自分の存在に苦しむ現代人には、直接「宗教に加入する」という処方箋も存在するだろう。

だが、どれだけの人が素朴に神を信じることができるだろうか?

だから、ここで神の名前を「不条理」に変えてしまうことにした。

(そもそも、一神教の神はとても理不尽である。「聖書入門」系の本を読んでみると分かる)

私たちは不条理に生まれて、不条理に死んでいく。だから隣人のことを思い遣ろう。そういう試みである。

また、「私を無くす」「利他」という言葉から分かるように仏教的なアプローチも含めることができたように思う。

 

ニートという行為は何も生み出さない……。

そう思われがちだが、無為をひたすらに見つめるという体験から、道徳性をひねり出すことができたのではないか。

そして、それはこれから科学的なユートピア、22世紀の働かなくていい時代がやってきたときに、普遍性を持つ思想になる可能性が考えられるだろう。

(おわり)

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