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この前、友人と酒を飲んでシーシャ屋に行ったのだが、その帰りに終電に乗り込むために駅前をダッシュしたところ、電車内で異常に気分が悪くなってしまった。
まともに立っていられず、視界は白黒に点滅して、不快感だけが濁流のように雪崩れ込んでくる。
朦朧とする意識の中で、「ああ、死ぬときって実際こんな感じなのだろうな」と思った。
普段から「死」について想いを巡らせたり、哲学や宗教の思想体系をインストールしても、死ぬときはどうしょうもなく死ぬ。
将来的に病気で死ぬのか事故で死ぬのかは分からないが、死を目前にした圧倒的な苦痛の前では、どんな信念も霧のように吹き飛んでしまうだろう。
先ほど、「”濁流”のように”雪崩”れ込んでくる」と苦痛を例えたが、まさに大いなる自然現象のように死(とそれに伴う苦しみ)には抗えない。
それに飲み込まれてしまったら、ちっぽけで無力な人間は全てを諦めて、流れに身を任せるしかない。
とはいえ、「ただそうするしかない」というある種の観念(あきらめ)は救いのようでもある。
もちろん、僕は死の間際になれば、泣き叫んだり、死にたくないと喚いたりするだろう。
訳の分からぬまま、パニックになって死んでいくのだろう。
だが、人間的な小賢しさや計らいを捨て去り、ただ自然の摂理に従って、それを行うしかないという事実には、どこかしら安心感を覚える。
(赤子が泣きわめきながら生まれるように、老人も泣きめきながら死んでいけばいい)
そして、どうすることもできない苦しみに翻弄されているうちに、僕はいつの間にか死んでいることだろう。
そこにはおそらく、「紛れもない『この私』が死んで永遠の〈無〉になること」という形而上学的な死の恐怖を挟み込む余地はないはずだ。
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選挙に行ったら三倍満出た。
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DTM環境を復活させた。
お金かかるかな、と思ってたけど、前のPCのときに買った音源やプラグインのライセンスが残ってたので安く済んだ。
あと、「ドラム音源 オススメ」で検索したら、未だに「addictive drums 2」って出てきて笑った。
8年前から何も変わってないんかい。
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・【若者に人気】小さな出版物「ZINE」 なぜ若者たちは惹き付けられるのか? [ドキュメント20min.] | NHK
去年の記事だけど、若者にZINEが人気らしい。
まあ、今のネットってほんまに「クソどうでもいい」としか言いようのない文言や広告に溢れているから、それを嫌悪してのアナログ還りなのかな、と思った。
古き良きゼロ年代のおもしろ個人ホームページが紙の冊子で再現されてるみたいな。
そもそも、ほとんど儲かりもしないのに、わざわざ個人が冊子を作って発行している時点で、それなりの熱意やクオリティが保証されてるのも嬉しいよね。
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今日、本を読もうと思ったんだけど、全然頭に入らなくて2~3pで断念してしまった。そんなに難しい本でもないのに。
なんて言えばいいのか、「文章がある」というよりは、文字という記号がたくさん羅列してあるだけというか、インクが染みついた紙があるだけというか、本を面で捉えてしまって、文章を読むことが全くできなかった。
文章の書き方もよく分からなくなってきた。
思ったことをそのまま書くことしかできない。
「りんごがあった。食べた。おいしかった」みたいな。
そして、そういった「当たり前」の事実を書いて何の意味があるんだろう? という無気力感にも囚われている。
(「空が青い」とかわざわざ言う必要があるのだろうか。そんなの見れば一目瞭然なのに)
神経衰弱。