■ 無の者は自身と向き合うことを強制される
ニートをしていると、社会的なアイデンティティが喪失していく。
「会社員」「学生」「夫/妻」「部活・サークルのメンバー」
肩書はなんでもいいが、「○○だから自分なのだ」という根拠のようなものが失われていくのだ。
こうなってくると、何者でもない自分自身と向き合うことを余儀なくされる。
自分、自分、自分、……。
自信の無さの裏返しか、気づけばいつも自分のことばかり考えている。
一体どこからどこまでが「ホンモノ」で、何が「ウソ」なのか。
次第に、自身の感覚さえ信用できなくなってくる。ときどき頭がおかしくなりそうだ。
もしかしたら、これは社会(集団)に貢献しない者に対する罰なのだろうか。
フリーライダーや納税を怠る者は、アイデンティティの喪失に苦しむことになる。
それがホモ・サピエンスの定めなのかもしれない。
■ 「推し」がわからない
とはいえ、僕は昔から「自分のことばかり考えている」「ジコチューな野郎」だったような気がする。
ここ数年の流行で言うならば、「推し」という感覚がよく分からない。
「推し」 … 他の人にすすめたいくらい気に入っている人物や物を指す。
「推し」は単に「好き」というよりも強い支持、憧れの気持ちを表す言葉。積極的に応援したい、自分にできること(新曲など動画の閲覧、グッズ購入など)は全力でやってあげたい、など熱度が高いのが「推し」。
https://www.mottainaihonpo.com/kaitori/contents/cat07/080-oshitoha.html より引用
もちろん、僕だって「このアーティストいいな」とか「この人なんか好きだな」と思うことはある。
ただ、僕がよく理解できないのは
「推しのためなら死ねる」「推しがいるから毎日頑張れる」
というような感性を持ち合わせている人々のことである。
なんというか、「自分」と「推し(特定の人物)」って、全く関係ないじゃないか、という感想なのだ。
なぜ推しを想うことによって、自分自身のリアルな苦しみを紛らわすことができるのか。
それが僕にはいまいち分からないのだ。
■ 不快なら見なければいいのに
あと、もう1つ全く分からないのが、テレビを見て文句を言っている人々である。
ワイドショーでもスポーツでもなんでもいいのだが。
よく芸能人の不倫などを叩いている人がいるが、これも「僕やあなたには全く関係ない出来事じゃないですか?」という感想である。
例えるなら、「日本の裏側のアマゾン奥地の〇〇族の△△と☆☆が不倫した!」と同じぐらい自分とは関係ないように思ってしまう。
なんであそこまで盛り上がることができるのだろうか。謎すぎる。
また、スポーツを観戦しながら「○○(選手)ホント使えねーな」という悪態をついている人もよく見かける。
これは「推し」の話とも関連するかもしれないが、なんで「自分」と「どこかでスポーツをしている人(チーム)」について、そんなに感情を強くリンクさせることができるのか分からない。
嫌な気分になるなら見なければいいじゃないか。なぜ自分からわざわざ「不快さ」を摂取しにいくのだろう。
インターネットのひねくれ逆張りオタクとかじゃなくて、純粋に分からない。
■ 国のために死ねるか
ニートや社会不適合者の中には、やたら日本を嫌う人がいるが、僕は別にそんなことはないな、といったところだ。
もちろん、「くだらねー」と思うこともたくさんあるけれど、開き直ってしまえば、古今東西の歴史の中でこれだけ安全で豊かな国もそうそう無いんじゃないだろうか。
(そんなことを言えるのはフリーライドをして楽している存在だからかもしれないけどね)
ただ、「戦争が起こったら国の為に戦えるか?」と問われたら、普通に嫌だなと思う。正直、めちゃくちゃバックれたい。
(調べてみたら、上記のようなアンケートを取った結果、「国の為に戦う(はい)」と答えた日本人の割合は13.2%だったらしい。
これは対象の79ヵ国の中で最低だったそうだ。参考)
別に、国のことを強く憎んでいるわけではないが、かといって国のために死ねるような帰属意識もない。
だって、死んでしまったらなにもかも全ておしまいじゃないか。
やっぱり、僕は常に「自分!」が先行しているジコチュー野郎なのだろうな。