僕は逆張りオタクの類である。
どれくらい逆張りかと言うと、小学生の頃には「おれプリン好きじゃないんだよね」と言っていたぐらいである。
高校・大学の頃は、ウェイ系グループともオタク系グループとも馴染めず、サブカル系に逃避した。
しかし、その中でも馴れ合いやヒエラルキーが発生すると、小っ恥ずかしく、居た堪れない気分になってきて、急に交流を拒絶してしまったりするのであった。
そんな社会不適合人間なので、現在は無事ニートになってしまったが、ニートとしても界隈に対して斜に構えていることでお馴染み(?)である。
そんな背景を持つ自分であるが、最近気づいたのは、逆張りは「なる」のではなく「いる」ものだということだ。
つまり、「逆張りオタクか、そうでないか」ではなく、自分の中に「もう1人のボク」として逆張りオタクくんが存在するということである。
だから、僕は基本的に穏やかな性格なのだが、「もう1人のボク」が前面に出てくると、「シャバいもの」に対して、一言物申したくなってしまう。
また、散歩中は脳内で「もう1人のボク(批判する自分)」と無限に会話していることが多い。
「〇〇って~~じゃないか?」「いや、でもそれだと△△だ……」、みたいな。
とはいえ、20年代の現在、基本的に「逆張り」はダサいものとされている。
「オタクくん、そろそろ逆張りとか卒業したら?」
だいたい世間の風潮はこれだし、僕自身もむやみに「逆張る」のは好ましいことではないな、と最近は思うようになってきた。
しかし、僕はこのようにも考える。
「逆張り」は不要なマインドや、今すぐ切り捨てるべき考えなどではない。
むしろ、正しく使えば、非常に有益なものなのではないかと。
それがどういうものかと言うと、自己批判、もしくは探究のための「逆張り」である。
例えば、ある行動をしようとしたとき、自分の中に逆張りを持っていれば、その行動の正しさを吟味することができる。
また、思索をする際にも、逆張りを持っていれば、自分の中で「ある考え」と「別の考え」をぶつけて、アウフヘーベンすることができる。
ここで注意したいのは、むやみに逆張りをするのが正しいと言いたいのではない、ということ。
逆張りの逆張りの逆張りの逆張りの……というような不毛な無限逆張りをするのではなく、アウフヘーベンーーより高い段階に昇華させようという意識を持つことが大切なのだ。
結局、世の中に純粋に「悪い力」というものは存在せず、本人がそれをどう使うかなのである。
だから、自分の中の「逆張りオタクくん」をむやみに切り捨てるのではなく、アドバイザーとして上手く付き合っていくべきなのだ。
(おわり)
(これ気になってるんだけど、まだ読めてないんで、読んだ人いたら感想教えてください)