脳内240505

結論から言えば、「自分を特別扱いするのはやめろ」という話なのだが、何から語ればいいのかよく分からなくなってしまった。

 

・自死について考えていたのだが、前にnoteでMさんが

「殺人を否定する人が自殺を肯定するのはおかしい」

という話をしていた気がする(うろ覚えなので間違ってたらスミマセン)。

確かに、これは当たり前で、「人間を殺していけない」という価値観を持つ人が、なぜ自分自身という人間を殺すことを是とするのだろうか。

僕は基本的に「誰であっても殺すなや」というスタンスではあるのだが、ぶっちゃけ極悪犯罪者はどんどん死刑にするべきという方もいるかもしれない。

だが、それでもその辺でナヨナヨ生きているなんかダメなやつを、本当に「殺してしまえ」と”ガチ”で主張する人はごく僅かであるはずだ。

だから、基本的に「人間を殺してはいけない」という価値観は、誰にとってもベーシックなものなのである。

まずは、自分を殺すな。

そういうことを考えてみてもいいのかもしれない。

 

・「オレは世界に選ばれた特別な使命を持った人間なんだ!」

そういうことを言っている奴がいたら、まずイタイやつである。

誰もが同意してくれるだろう「the中二病」である(そういう人、嫌いではないがね)。

だが、その一方で「自分”だけ”は犠牲になってもいい」という態度も、ある種の中二病なのではないだろうか。

これについて印象的だったのは、週刊少年ジャンプ(中二病の源泉)で連載されている『呪術廻戦』を読んでいたときである。

もう結構前の展開なのでネタバレしつつ話してしまうが、要約すると、主人公が自分の中に巣食う悪役に、「誰も傷つけないなら自分の身体を1分間自由に使ってもいい」と約束してしまったところ、その約束の「誰も傷付けない」に自分自身が含まれていないことを逆手に取られ、やりたい放題されてしまったのである。

自己犠牲・自己献身的な態度は美しいかもしれないが、行き過ぎるとかえって周りに迷惑をかけることもあるものだ。

 

・その他で言えば、ホモネモさんが

「世界に生きている『誰か』を喜ばせることはいいことだ。

そして、あなたは誰かにとっての『誰か』である。

例え1人で引きこもってゲームをしていたとしても、君が喜んでいるのなら、世界の役に立っているのだ」

というような自論を展開していたような気がする。

確かに、世の中の幸福の総量が増えるのは、あきらかに善いことである。

それが「他人をボコボコに殴ると気持ちよくてやめられない」のような悪質なものでもない限り、自分を自足的に幸福にするのは「善いこと」であり、後ろめたい気持ちになる必要はないのかもしれない、と思った。

(「自分だけ幸福になってどうすんの?」という問いを突き付けられることは多い。自己問答であれ、他者からの意見であれ。

そうした息苦しさに苦しんでいたので、上記の観点はなかなか新鮮かつ、ありがたいものであった)

 

「みんなを殺してはいけない。そして自分を殺してはいけない」

「みんなを傷つけてはいけない。そして自分を傷つけてはいけない」

「みんなを幸福にするのはよいことだ。そして自分を幸福にするのはよいことだ」

自分を特別扱いするのはやめろ。

 

ニートとは、”労働教”を信じることができなかった存在である。

ここでいう労働教とは、「みんなと足並みを揃えて、サラリーマンとして生活していれば、未来は”安心”だ」というあの感覚のことだ。

ニートはもはや労働教を信じることができない。

世間が提唱する”幸福”を信用することができない。

とはいえ、人間とは、何かを信じずに、希望無しに生きていけるほど、強い存在ではないことも事実だ。

こうしたとき、ニートが取り得る選択は「己を頼りに生きる」か「自分を捨てる」のどちらかになるのではないだろうか。

 

前者とは、簡単に説明するならば、福本漫画(アカギとかカイジ)の世界観である。

「自分に由って生きる…! それが自由…!」というそういうノリだ。

確かに、ニート生活やフリーター生活は破滅まっしぐらなのかもしれない。

だが、それは紛れもない「この自分」が決断したことである。

自己決定に沿って生きること、そして、その責任を自分が負うこと。

そうした不安定な生き方に身を投じる「覚悟」を決めて、「納得」を得て生きるのが前者の選択である。

 

逆に、後者は「自分」をというものを徹底的に捨てる。

「オレが!オレが!」という執着を捨てる。

梵我一如の境地を目指すとか、伝統宗教に帰依するとか、そういう方向性である。

また、①で話した「自分を特別扱いするな」もこっちの分類かもしれない。

 

どちらが正しいかは分からないし、自分もなんだか半端な立ち位置になってしまっている気がする。

あとは、単純な二項対立ではなく、「自由であるが故に執着を手放している」や「自分を捨てているが故に強烈な個性に見える」みたいな入り組んだ構造があるのかもしれない。

この辺はまだよく分かっていない。要研究。

 

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