脳内240822

[1]

このところ頭がうまく回らなくて、まとまった文章が書けないが、なんとか個別にアウトプットしてみる。

 

[2]

ニーマガVol.2が完成した。嬉しかった。15日には東京で打ち上げもした。楽しかった。

それはもちろん素晴らしいことなのだが、個人的な”閉じ”とか”密度”が最近失われてきてしまったのを感じる。

1~2年前、完全に働かずに散歩と読書をひたすら繰り返していた時期のように、自分に深く潜れなくなってしまった。

一緒に冊子を作ってくれたり、遊んでくれたりする方々がいることは大変ありがたいことである。

だが、そのバランスを自分自身でうまくコントロールしていかないといけないようだ。

 

[3]

何度か言及していることではあるのだが、僕はニート界隈の中では恵まれている方だと思う。

ネットで活動しているし、遊んでくれる友人もいるし、純ニートではなく在宅ワークで最低限の収入もある。

完全に部屋にひきこもって、外に出るのもつらいようなガチニートにとっては、いわゆるフェイク野郎に映るのではないだろう。

だが、僕だって別に人生が「楽」なわけではない。

週の半分以上は家のベッドで寝込んでいるし、起きてるときも何故か体がだるくて仕方がない。

自分は自分なりに精一杯ギリギリを生きているのである。

だからあまりいじめるな。

 

[4]

ニートうんぬんというか、世の中全体として、「暗くて苦しんでいるやつこそリアルで、明るく楽しんでいるやつはフェイク」という風潮があると思う。

そんな「苦しみマウント」や「苦行バトル」をやっていてもどうしょうもないじゃないかと思う一方で、確かに孤独や苦痛がないと創作できないよなという実感もある。

良い悪いは別として、[2]の項目でも述べた通り、少なくとも自分にはそのような傾向があるようだ。

 

[5]

普通に発狂しそう。

どれだけの人に伝わるか分からないが、普通に発狂しそうじゃないですか?

もちろん、少なくとも傍から見れば、(あまり働いていないこと以外)僕は通常通り生活しているように見えるだろうし、実際に遊んで対面した人も「意外とまともな人だな」と認識してくれていると思う(たぶん)。

でも内面はけっこうギリギリで、毎日わりと気が狂いそうになっている。

いつ叫びながら電柱に頭を叩きつけ始めるか分からない。そんな状態だ。

ニーマガの打ち上げで「20代のうちはまだネタにできるが、30代以降の無職ニートは修羅の道だ」というトークテーマがあったのだが、僕はお金や労働よりも「この精神状態であと何十年も生きていかなければならないのか」という事実にまず打ちひしがれている。

この綱渡りを続けていく気力はあるのだろうか。下を向いたら多分死ぬ。

 

[6]

パソコンを買い替えた。

大学1年生のときに買ったノートパソコンを10年ぐらい使っていたのだが、ここ最近急にシャットダウンをかましてくるようになったので(スリリングすぎる)、流石に新しいのを買った。

買ったのはLenovoのThinkCenterという小型デスクトップのやつ。11万円。

ニートの1万円は社会人の10万円に相当すると言われている(俗にいうニートレート)のでデカい買い物である。

基本は仕事やニーマガの編集で使うパソコンだが、やっぱりDTM環境を復活させて音楽を作りたい。

文章も音楽もそうだが、マジで(かまちょとかではなく)いつ死ぬか分からないから残せるうちに残したいものは残しといたほうがいいと思った。

あと、音楽作ってもたぶんこのアカウントでは発表しない。

ニートうんぬんでフォローしてもらったのに、それに便乗して音楽を発表するのはなんか違うから。

普通に人間として仲良くなった人には音楽アカウントを教える感じになりそう。

 

[7]

ニートボケか離人症なのかよくわからないが、現実感の無さがひどい。

正確に言えば、”今”の現実感がないわけではない。

コーラを飲めばうまいと思うし、ハンバーガーを食べてもおいしいと思う。

そこではなく、時系列的な”つながり”のようなものが薄れてきてしまった。

確かに”それ”を自分がしたはずなのに、そのつながりを実感することができない。

よく分からず、意味不明な、”今”だけが目の前に現象している。

やっぱり発狂しそう!

 

[8]

家族の話はあまりしたくないのだが、そろそろ実家で暮らすのが限界になってきたように感じる。

いい歳して実家に住ませてもらっている立場で言えることではないかもしれないが親と同じ空間にいるのがつらい。

この前、めずらしく家族で外食をしに車で出かけたのだが、車内の空気がしんどすぎて、帰りは「散歩したいから歩いて帰るわ」と車に乗るのをやんわり拒否してしまった。1時間ぐらい蒸し暑い熱帯夜の中を歩いた。

母と父、どちらかなら耐えられるのだ。

だが、母と父が同じ空間で会話をすると”無理さ”が乗算されて、一気にストレスをフルで感じてしまう。

(ほんとに。ほんとに失礼なんだが、アホな質問にアホな返答をして、会話に嚙み合わなさを感じて、無意味にお互いイライラしてるのがうちの両親あるあるだ。

家族がドライブ中に曲名?で喧嘩する有名な動画あるじゃないすか。あれを希釈したような感じのトークを毎回してる)

引っ越すか……。パソコン購入も含めて貯金がかなり減るが、もうそれでいいやという気分になってきた。

 

[9]

両親が苦痛なのは事実だが、親に「~された」みたいな受け身の感覚でいつまでもいるのもやっぱりよくないな、と思う。

(これは「親を許す」「親を受け入れる」とかそういうことではなく、自分を守るためにも)

年齢的にも親に「~する」という態度に変えていった方がいいのかもしれない。めざせ親孝行?

 

[10]

確か、『嫌われる勇気』で「あなたが不幸なのは、あなたが不幸であることを望んでいるからだ」みたいなセリフがあった気がする。

まあ、いろいろと物議を醸しそうな主張ではあるが、個人的には分からなくもないなと思う。

見ての通り、自分は暗い人間、不幸な人間であるが、実はどこかで不幸であることに”安心”している。

幸せになるのが怖いのだ。幸せというのはどうしても終わりや破滅を孕んでいる。

どんな幸福にもいつか必ず終わりが来る。

登り続ければ登り続けるほど、僕は落下したときの惨たらしい様子を想像してしまう。

だが、その一方で不幸は安心だ。

これ以上落ちることのないどん底で希望を仰ぎ見続けていればいい。

逆に言えば、不幸というのは希望や可能性に転ずるポテンシャルを持っている。

その不幸にいつまでも甘んじていたいというのが僕の深層心理なのだ。

 

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