最近、文章が書けなくなったのでなぜか考えてみた。
この文章が書けているじゃないか、というツッコミは野暮である。
ブログやnoteの更新を2~3か月サボっていたという意味だ。
① 労働が忙しい
webライターの業務委託をしているのだが、それが忙しい。
インタビューの書き起こしやマニュアル作成の仕事が追加されたので、最近はそれに追われている。
② 文章力を労働で消費する
文章を書くのは好きだ……と思うのだが、文章を書くのに使うモチベやエネルギーをライティングの仕事で消費すると、ニート的な文章や個人的な文章を書く余力がなくなる。
清掃バイト(肉体労働)をしていたときはもう少し書けていたような気がする。
③ 生活が忙しい
最近実家を出たので生活が忙しい。
労働、自炊、掃除、洗濯などに追われて精一杯になっている。
完全に生活に飲み込まれて、それが全てとなり、ニートや労働、社会や哲学の問題を考える余地がなくなってしまった。
(この状態を生活リアリズムと命名したい)
④ バイタリティがない
そもそも、根本的な原因といえば、自分にバイタリティが全くないことである。
シャトルランはいつもビリから1,2番目だったし、ジムに行って筋トレや有酸素運動をしていた時期もあったが、その後は疲れ果てて何もできなくなってしまった。
(持ち上げられるウェイトや1時間当たりの走行距離は伸びていくのに、その後家のベッドで寝込むのは何も変わらないのである!)
⑤ ほのぼのしてしまった
今の生活が結構充実しているので、”飢え”のようなものを失ってしまった。
平和ボケ。丸くなった。牙が抜けた獣。
孤独で苦しんでいる人間の創作だけがリアル!……という考えを支持しているわけではないが(そんな苦行自慢をし合ってもしてもキリないじゃん)、どうやら自分の場合、孤独で苦しんでいなければ、創作ができないようである。
⑥ 昼夜逆転が治ってしまった
これまで10年ぐらい昼夜逆転と夜昼逆転を繰り返し続けて狂いそうになっていたのだが、なんと50日以上も24~8時の神睡眠が続いている。
それ自体は非常に喜ばしいことなのだが、自分は深夜に謎のゾーンに突入しているときが一番創作活動ができるので、その手段を失ってしまった。
(寿命削ってる感半端ないけど、深夜が一番筆が乗るの誰か分かってほしい。夕方の寝起きに見直しすると絶好調or超駄作しかないのも含めて)
⑦ 本を読んでない
飯を食わなければ大便は出ない。
文字を読まなければ文章は書けない。
そういうわけでこの前やっと図書館で貸出カードを作ってきた。
借りたのは『荘子』の解説本。やっぱいいよね。荘子。寝る前にちょっとずつ読んでる。
⑧ ネットの知り合いがリアルの知り合いになってきてしまった
ニーマガでオフ会する前までは思ったことをざっくばらんに書けていた。
つまり、言い換えれば現実では言えないようなことまで言って、イキっていたわけだが、リアルで何回も会いすぎて自分の精神を吐露するのが恥ずかしくなってきてしまった。悲しきネット弁慶。
⑨ 文章を書くことに虚しさを感じるようになってきた
こういうことは達人や仙人の域に至った人が言うべきことであるのは百も承知なのだが、文字をこねくり回すことに虚しさを感じるようになってきてしまった。
どんなに美しい文章を書いても、緻密な思想体系を組み上げても、結局文字やん、みたいな。
どんなにすごいレゴブロックのオブジェ作っても、結局レゴやん、みたいな。
⑩ ニートという概念からの乖離
これには2つの意味がある。
まず、第1に自分がピュア・ニートでなくなってから5年ぐらい経過したこと。
2~3年前は何もしてなかったが、『寝そべり族マニュアル』の印税があったので、正式には無収入のニートではなかった。
こうやって、純ニート期間から距離が空いてしまうと、「ニートとは~」みたいなことをしたり顔で語れなくなってしまった。
また、今の業務委託の労働をやめても、(嫌な言い方をすれば)ニート的人脈があるので、まっさらなニートには戻れないな、と思う。
そして第2に、ニートという概念がどうでもよくなってきてしまった。
誤解を招かないように言っておくと、ニートや労働問題がどうでもよくなってしまったということではない。
働きたくない。そこは初志貫徹しているし、労働はそろそろどうにかするべきだと思う。
だが、人間をニートだとかフリーターだとか正社員だとかわざわざ区切る必要性あるのだろうか、という気持ちが最近は強い。
分かりやすさのため、もしくは社会という形式のゲームをやっていくために、自分もニートとか無職とか名乗っているけど、その辺が本当にどうでもよくなってきた。
⑪ 無から生まれる澱
そもそもなぜ、自分は文章を書いていたのだろうか。
別に自分は文学少年だったわけでもなければ、昔から日記を学習机に隠しながら書き溜めていたわけでもない。
自分にとって文章は無限の無から生まれる澱のようなものであった。
何もない監獄に閉じ込められた終身刑の囚人が壁にチョークで書き残した記録のようなものだったのである。
今はそれが生活で満たされてしまった。
今後も文章を書くならば、新しい方法やスタイルを模索していくしかないのだろう。