今日はkindle unlimitedで本を読んでいた。
最近、また2ヶ月で99円キャンペーンをやっていたのだ。
そして、マックの15ピース390円ナゲットを食べる。
これが資本主義の犬の生活である。
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老荘思想の本を読んでいたけど、やっぱりいいなと思った。ゆるい仏教みたいな。
ニートマインドを持ち合わせている人は「原始仏教」「老荘思想」「快楽主義(エピクロス)」「ニヒリズム(ニーチェ)」辺りが好きそうな気がする。
万人にとって、絶対的に「正しい生き方」って存在しないよなー、と思う
理由は「個人に適した生き方」と「時代に適した生き方」がそれぞれ存在するから。
「個人」の話からしてみる。
「生きづらい」みたいな、内向的だったり、センシティブさに苦労をしている人々を自分も含めてインターネットでよく見かけるけれど、別にそういう人々は現代で急に増えたという訳じゃなくて、過去にも存在していたはずだ。
MBTIテストという、人間を16種類に分類する心理テストがあるのだけど、ツイッターで見かけた「地球には16種類の宇宙人が存在していると考えることができる」という説明が面白かった。(ちなみにニートは大体INFPタイプになる)
魂の素質、なんていうとちょっとスピリチュアルぽくなってしまうけど、生まれ持った精神の傾向は個人によって間違いなく存在するように思う。
スポーツで、体格によって最適なポジションが違うように、魂の性格によっても、社会で最適なポジションは異なるのではないだろうか。
みんなで同じポジションを目指しても、自分の実力を発揮できない人が現れてしまうはずだし、ディフェンダーに向いているのに、フォワードの勉強をしてもあんまり意味がない。
前置きが少し長くなってしまったが、つまりは「過去にも自分と似たタイプの人間が間違いなく存在していたのだから、似たタイプから処世術を学ぶべきである」と言いたかったのである。
レジェンドにこんなことを言うと生意気だと思われるかもしれないけど、なんだか老子には自分と似たフィーリングを感じた。
「同じタイプのスタンド…!」みたいな。
自分と似たような人が、過去にどのように生きていたか知ることによって、現代での生き方のヒントになる気がする。
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「時代」の話に移る。
当たり前だけど、時代というか、それに伴って世間が移り変わる訳であるから、時代によって「正しい生き方」は異なる。
現に、コロナ禍によって「ひきこもり」は正しい生き方となった訳だし。
これからの日本はどうなるのだろう。
現代は資本主義がある程度に飽和してしまったというか、「戻り地点」に突入した気がしなくもない。
波のピークを迎え、これからは色々なものが下がっていくような。
例えば、人口減少、少子高齢化、出生率低下などが著しいけれど、普通というか、仕方ないことだと思う。
昔は「子供の死亡率が高かった」「働き手が必要だった」「セックスぐらいしか娯楽がなかった」から子供が増えていた訳だけれど、医療も、生活も、娯楽も、そこそこに飽和してしまって、生きる為に社会を回すのではなく、社会を回す為に人が生きるような時代になってしまった。
この飽和かつ不景気の時代に、労働者層が「お金がない」「幸せにできる自信がない」「搾取される奴隷を再生産してしまうだけ」という理由から「産まない」という考えに至るのも分からなくない。
反出生主義みたいな思想が流行るのにも、それなりの理由があるように思う。
けれども、人口が減って国力が落ちて行ったらどうなるのだろう。
素人の考えだが、外国の人々や移民たちにだんだん乗っ取られていくのではないだろうか。そして、治安が乱れる。
これは別に移民問題や差別の話がしたいのではなくて、空いているスペースがあったら、他所から人が入り込んでくるのは当たり前だし、衝突や乱れが発生するのも当たり前である、ということだ。自然の摂理の話をしているのである。
もしかしたら、近未来の日本は退廃して、北斗の拳みたいな世界観になってしまうこともあり得るのかもしれないけれど、そうしたらまた人々は「生きる為に」「娯楽を求めて」人口増加を始めるのだろうな。
…あんまり関係ない話が長くなってしまった。
つまり、時代によって、正しいというか、「うまい」生き方は変わる訳である。
特に現代は、「真面目に働く」ということがあまり報われないように思う。
ある程度良い大学を出て、待遇がいい会社に入れた人や、ホワイト企業に滑り込めた人はいいと思うのだが、「週5でフルタイムのキツいアルバイト」や「ボーナス無しのブラック正社員」をしているような人々は貧乏クジを引かされているような気がしてならない。
昔から(あんまり)働かない人々は多く存在した。
三年寝太郎とか、ヒッピーとか、ビート族とか、フーテンとか、ダメ連とか。
そういうポジションに就くのも悪くないように思う。
『ニートって言うな!』という本で読んだのだけれど、どの時代も「働く意思がない」人は一定に存在しており、その割合はほぼ変化していないそうだ。
00年代に「ニート」という言葉が話題になり、「堕落した若者の増加」「犯罪者予備軍」などと社会問題かのように叩かれたけれど、実は「求職者」や「フリーター」の増加を一括りにして「ニート」として煽られていただけであって、その本質は不景気による失業増加が若者に責任転嫁されていただけだったのである。
昔は「真面目に生きること」が報われる時代だったのかもしれない。経済も上がり調子であったし。
フーテンと呼ばれた働かないような人々も存在したけれど、一般論としては、「上を向いて歩こう」が「うまい」時代だったのである。
けれども、今の令和は「煮詰まった」「飽和した」「下がり調子を予感させる」ような時代だ。
こんな時代では「下を向いて歩こう」と言いたくなる。
絶望して無気力に生きようって訳ではないけれど、もっとダウナーになっていいというか、やさぐれた生き方をしてもいいんじゃないか、と思う。
ウーバーイーツで暮らしていくとか。バイトやりながら副業とか。必要な分だけしか働かないとか。
サラリーマンになって、結婚して、家族を作って、子供を産んで、家を建てて…、のような「昔から理想とされる一般的な生き方」を否定している訳ではないけど、現代でそれに囚われてしまったり、執着してしまうのは疲れてしまうことではないだろうか。
別に「ニートが正しい」とか「働いたら負け」みたいなことが言いたいのではなく、もっと脱力的にならないと、下がり調子の時代はやっていくのはしんどい。
なんなら「今日を生き延びる」のが毎日の目標でもいいぐらいだ。
気合を入れてゴツゴツしてると、下り坂では削れたり、砕けたりしてしまうけど、だらーんとスライムみたいにしていれば、自然と流れていく。
古い価値観に縛られない、頭をやわらかく。「ダメだなー」と思っても、とりあえず生きておく。
みたいなことを伝えたかった。
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そろそろ、まとめる。
老子の話に戻ると、「無の用(何にもしないで働いている)」という言葉があった。
茶碗のような器は、空っぽの部分があるからこそ、道具としての意味を為している、ということだ。
ニートもまさに「無の用」というか、アリの群れに20%のニートアリが存在するように、働かないことで人間社会において一種の役割を担っているとも言える。
コロナ禍で「ひきこもり」という在り方が評価されたかのように。
たまに自分をやたら卑下するニートがいるけれど、別にそんなに落ち込む必要はないと思う。
悪口を言ってくる人もいるかもしれないけど、そういう人は自分の人生を生きてないから、他人ばっか気にしてしまうんじゃないだろうか。相対的な幸福の中で生きている人はいつまでも満たされることがないので、放っておいてもよい。
逆に、働かない人は「悪口を言われるのが仕事」なのかもしれない。「下の存在」になることによって、働いている人に優越感を与えるのが役割なのだ。
悲しいようにも思えるけど、悪口を言われるだけで働かなくて済むのなら、それはそれでなんて楽な仕事なんだろう。
まさに、何もしないという働き方だ。
けれども、ずっと何もしないのも、避けておきたい「凝り固まった生き方」である。
こだわらないことが大切なのかもしれない。
正社員で働いてもいいし、フリーターやってもいいし、ニートしてみてもいいし、趣味で小遣い稼ぎしてもいいし、ウーバーで生活してもいいし、シェアハウスに入ってみてもいいし、山奥ニートになってみてもいいし、小屋で暮らしてもいいし、外国に行ってもいいし、隠居生活に突入してもいいし、俗世に戻ってきてもいい。
シームレスに生きてみる。
“特定の何か”になるのではなく、ただ、人間として生きていくような。
正しい生き方なんて存在しないのだから、柔軟にやっていくしかないのだ。