こんな一節がツイッターで拡散されたことがある。
やるせなさに満ちたインターネット名文であるが、自分が思うのは「別にそれでもいいじゃん」ということだ。
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多くの人は「免罪符」が欲しいだけなのだと思う。
本当に鬱や発達障害のような症状で困っている側面もあるのかもしれないが、「自分がまともにやっていけないのは◯◯だから」という理由が欲しいのだ。
「自分はただの無能である」
そんなことを認めるのは恐ろしい。
ただ、ここで主張したいのは「生きづらさ」や「無気力に陥る」なんていうのは当たり前ということだ。
決して自分を卑下する必要などない。
我々は常に誰かにとって都合のいい、”普通”を押し付けられている訳である。
「正社員で朝から晩まで働くのが”普通”」
「無能な人間は爪弾きにしていいのが”普通”」
「”普通の人々”はそうしているのだから、”普通”はみんなに合わせるべき」
こんな世の中で「生きやすい」なんて思える方がちょっとおかしい。
こちらから言わせて貰えば、「生きづらいのは”普通”」ということだ。
生きづらさをどうにかしていく為には、まずは現状をドライに把握する必要がある。
「無気力な健常者であった」のならば、それはそれでそのような事実を知ることができたという大きな初めの一歩であるのだ。
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とはいえ、”普通の社会人”をやっていけないのなら、その人は何かしらの社会不適合エッセンスを持ち合わせているのだろう。
例えば、「発達障害では無い」と診断されたとしても、その基準は曖昧なものだ。
どんな人間にも「発達障害のようなところ」は存在する。
人間の持つ特性というグラデーションの中で、「ここからは発達障害」と区別するのは難しい。
医者によって診断が変わったり、発達障害グレーゾーンという概念もあるぐらいだ。
ただ、どんな社会不適合者でも「それでも生きていく方法」を模索していかなければならない。
お墨付きの発達障害でも、自己診断のアマチュア発達障害でも、精神疾患の人でも、家庭環境に問題があった人でも、繊細さんでも、ただの無気力な健常者でも、基本的にやっていくことは同じなのだ。
ここで注意したいことが3つある。
まず第一に「インターネットの情報は基本的に適当」ということである。
ツイッターでバズりがちな「発達障害ライフハック」「発達障害あるある」みたいなものは大体ただの経験則だ。
ソースやエビデンスもありゃしない。
ダメ人間あるある、インターネットに常駐しがちな人間あるある、などに言い換えても同意されると思う。
ただ、自分と似た属性に向けられた情報であるいうことは別に間違っていない。
情報を鵜呑みにせず、「試しにやってみよう」「参考にしてみよう」ぐらいに受け止めていくのがいい。
第二に「自分の特性をアイデンティティにしない」ということだ。
よく見かけるのが「自身の生きづらさを読み解こうとした結果、逆にそのような特性に囚われてしまった」というパターンである。
それぞれの生きづらさやそれを改善しようとする姿勢を否定するつもりはない。
ただ、先程も述べた通り、人間というもののグラデーションは曖昧で複雑なものだ。
「自分は◯◯だから…」と、特性を理由に自らの可能性を閉ざしてしまっている事も少なくないように思える。
あくまで「人間を読み解く上で、そのような判別方法も存在する」というだけなのだ。
型に囚われすぎるのはやめておこう。
(ただ、人生の対処法をガチガチにマニュアル化した方が生きやすいという人も存在するとは思う。その辺りも含めて試行錯誤していく必要がある。)
第三に「免罪符を売り捌くヤツに気をつけろ」ということだ。
冒頭でも述べた通り、「◯◯だから仕方ない」という免罪符を求めてしまう気持ちはある。
そんな心理を利用しようとする輩も存在するはずだ。
「△△な人は◯◯です!僕の有料コンテンツを読めばうまくやっていけます!」
そんなものには気をつけよう。
あなたにとって都合のいい言葉や耳触りのいい言葉を並べているだけかもしれない。
このサイトだって充分に怪しいものである。
特定の人物の言っていることを鵜呑みにするのではなく、フラットな視点から多くの情報を集めて判断していこう。
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まとめると
ただの無気力な健常者でもいい。
こんな世の中、生きづらいのは当たり前なのだから自分を卑下する必要はない。
ただ、どんな社会不適合者でも、「自分なりの価値観」や「それでも生きていく方法」を模索し、組み立ていく必要があることには変わりはない。
その中で偏った情報に騙されたり、型にハマりすぎないよう気をつけよう。
ということである。